遍路紀行 34日目 (1997年3月30日) 晴れ

行程

70番門前の一富士旅館~71番弥谷寺(三豊郡三野町)~73番出釈迦寺善通寺市吉原町)~72番曼荼羅寺(同)~74番甲山寺善通寺市弘田町)~75番善通寺(同.善通寺町)~76番金倉寺₍同.金蔵寺町)~77番道隆寺仲多度郡多度津町)~丸亀市の中心街にある丸亀プラザホテルまで  歩行距離 33キロ (延べ1058キロ)

この日の出来事など

1.朝7時、一富士旅館出発。早朝の国道11号線は日曜日の事とて車少なく、加えて昨日とは打って変わった快晴だ。春もうららの陽気なり。心が弾まぬはずがない。歩く楽しさが身を包む。豊中町より高瀬町に入る。今日一日で善通寺市の寺々を中心に札所七ヶ寺を打つ予定。3日かけてやっと一ヶ寺の土佐修行道場の事を思えばアッという間の遍路行である。午前9時、71番弥谷寺山門に着く。ここから本堂までの長い上りの石段に15分程を要した。弘法大師学問所跡の岩屋は幽寂な佇まいを期待していたが、案に相違して観光参拝者や団体遍路さん達で雑踏の場と化しておよそご学問所のイメージとはかけ離れていた。本堂ご本尊納経には靴を脱いで堂内に上がらねばならないが玄関の靴脱ぎ場が満杯で、やむを得ず堂外で靴を脱ぎ土のついた足のまま本堂に上がり納経する。9時半打ち終わる。

2.73番へ向かう。道順上73番から72番への逆打ちが普通。10時から10時半にかけて出釈迦寺曼荼羅寺を次々に打つ。両寺ともに田園地帯に点在する小高い丘の裾にあり長閑な春光を堪能している。あの弥谷寺の喧騒は一体何なのか。有名と無名の違いなのか。弥谷寺には参拝者が溢れていたのだから、72番、73番に遍路バスが殺到しているかと思いきや、ガランとしている。素通りなのかしら。判らぬ。しかし小生には鎮まりかえる本堂、大師堂での納経は忘れえぬ最高に幸せなひと時であった。理由は桜である。桜、桜だ。いずこを向いても万朶の桜。「ねがはくは花の下にて春死なむその如月のもち月のころ」と詠んだ西行法師の心境も斯くばかりか。西行と言えば、保元の乱で敗れ讃岐に配流されたまま憤死した崇徳院の跡を弔うために51歳の秋に讃岐を訪ね、翌年まで当地に留まっていたので、あるいは讃岐の桜花を目にしていたかもしれない。西行法師の心を我が心としたい。これはうぬぼれ。春うららの一刻を全身で満喫する。

 この辺り溜池多く,池端の道は湿めり気味でじめじめしている。蝮は湿った場所が好みのはずだ。花遍路の季節から秋までの間は蝮がとぐろを巻いて通せん坊していそうな草深い不気味な池辺の野道である。桑原、桑原!さて、10時50分、74番甲山寺を打つ。田んぼに囲まれた里の寺だ。風が強い。桜の枝が騒いでいるが、花はこれからが盛りとみえて散っていない。

3.11時15分、75番善通寺門前に着く。大師誕生寺の名刹だけあって、その結構な壮麗さは札所随一の大伽藍と言われるゆえんである。本堂と大師堂を結ぶ境内の参道は浅草の仲見世を思わせる店店が並び、観光バス遍路バスで続々と到着する善男善女の群れで大混雑である。大師堂は流石に目を見張る結構な建築で,本堂を凌ぐ壮大さである。12時善通寺打ち終わる。

4.76番金倉寺へ向かう。この辺り、まだ善通寺門前町か。町名も善通寺町。古い家並みが密集し軒を連ねる狭い小路を抜け、4車線の立派な自動車道に出る。車は皆目走っていない。快晴。暑い。土讃本線の踏切を渡ると国道319号線に突き当たる。右に折れ真っ直ぐ南進すれば琴平宮である。左に折れて北進、76番へ向かう。12時40分金倉寺をうつ。

5.77番道隆寺へ。間もなく善通寺市から多度津町に入る。午後1時35分道隆寺を打つ。今日は讃岐平野の真っただ中の札所めぐりの為、特に73番から77番までは春風の中を身も心も軽く駆け抜けた。道隆寺へ向かう多度津の町中から瀬戸大橋がチラリと垣間見えた。あの橋を渡る日もすぐだ。ふと、里心が沸く。

6.道隆寺を出ればすぐ丸亀市に入る。予讃線の線路越しに瀬戸内海を左に眺めながら県道33号線を丸亀市街目指して進む。依然として快晴が続く。春爛漫の丸亀であった。心も体も軽く弾む。34日も歩き続けると、今日の歩行距離である33キロなどは意に介さなくなる。33キロと言えば東海道線の東京駅/東戸塚駅手前の距離に相当する。訓練を重ねて体を慣らせば苦しさにも順化するのが人の体か。不可思議な存在。午後2時半、丸亀城公園を真正面に見る丸亀プラザホテルにチェックインする。個室で寛ぐ。部屋から丸亀城が手に取るがごとくまじかに見える。朝食付き6150円。このホテルも宇和島のリージェントホテル同様洗濯機、乾燥機を備えてくれている。場所は地下駐車場の隅。