四国遍路の事ーーーおわりにーーー

 37日間に及ぶ遍路紀行の投稿終わりました。終わってみれば400字詰め原稿用紙207枚分になりました。投稿冒頭文中で簡単に自己紹介しましたように、82歳の爺様にとって2月20日より本日3月27日まで連日キーボードを叩けるか一抹の不安がありましたが、無事終わりました。遍路に譬えれば通しの1200キロの完歩です。

 まさに20年前の体験ですが、既に記録として纏めていたものに加え、いまだに鮮明に残る記憶をベースに加筆、修正したものが今回の遍路紀行です。数年前の事柄であっても「記憶にありません」と証言して一向に憚らぬヒトもいますが、道中会った人の顔つきは流石に忘れましたが、風景の一こま、一こま、その色合いや道中で起こった事柄は走馬灯のように次々思い起こされます。20年を経過した今、市区町村名などは統合、合併により呼称が変わり、旅館.民宿.金銭感覚や町中の佇まいも激変しているでしょうからこういう面では役に立たないと思います。しかし人との出会い、人の情け、孤独の不安、やり遂げようとする気持ちや勇気等をこの紀行文から忖度できるかもしれません。

 参考までに、私が頑張り通した背景にあるエピソードをご紹介します。歩き遍路をすることを知った年来の我が悪友が「お前、3日位で戻ってくるなよ」と言って、ケラケラと笑ったのです。この”ケラケラ”はさすがに忘れられず、頑張りの原動力になりました。今では感謝です。

 特に私は信仰心が篤いわけではありません。ましてや神秘主義者でもありません。若き日の空海が唐に留学して学び日本に流布した密教の国家鎮護、即身成仏と言う現世利益を強調する宗派には斜に構えざるをえません。しかし四国を歩いていると、大師の学問哲学などは表向きの事象であって、裏の事象である大師の四国における足跡から見える大きな人間愛が巷の人々をして理屈抜きで大師を敬愛させている主因ではないかと思うようになりました。ゆえに、「お大師さん」なのです。正直、四国の37日間は南無大師遍照金剛と唱えることで心が浄化、緊張から解放されるカタルシスを体感できたかと思っています。

 屁理屈をならべてすみません。今、私はそのKHATARSISにあると思います。伝えたいことをお伝えしました。四国の体験を絶対風化させず、あと僅かな余生ですが人から愛される人間形成に努めます。駄文お読みいただき有難うございました。

 なお何か質問事項おありの時はコメント欄にでもご投稿いただければ、私のメールアドレスなどお知らせいたします。それでは御縁あることを祈りつつさようなら。

 

遍路紀行 37日目 結願の日 (1997年4月2日)曇り、のち雨

行程

志度寺門前の栄荘旅館~87番長尾寺大川郡長尾町)~88番大窪寺(同.多和)

歩行距離 23キロ (延べ1154キロ)

この日の出来事など

1.目覚め爽快。ついに結願の日になった。7時10分旅館出発。志度町の町並みは短い。町を離れると広々とした田園の中を車道が延びている。車は走っていない。僅か20キロ強の歩きで結願である。のんびり歩く。しかし空模様が若干気になる。8時20分、87番長尾寺打つ。町寺。長尾町の町並みを過ぎると自動車道兼用の遍路道は次第に高度を上げてゆく。結願寺は標高500メートルほどの山中にある。最後の登攀行だ。もてる力を惜しむことなく全開すればよい。

2.9時半前山ダムに到る。展望台からダムの雄大な眺めを暫し楽しむ。人影無し。車影無し。結願寺まで車道コースを行けば10キロ強、徒歩2時間50分と案内板にあり。距離は最長だが歩行は楽。他に2コースあり。一つは789メートルの女体山越えで距離最短だが険しい。もう一つは標高400メートルの額峠を越えるルート。距離は10キロぐらいか。結局額峠を選ぶ。前山ダム公園前に額峠に通じる遍路道の入り口がある。軽自動車なら走れる程度の舗装はあるが凸凹の荒れた道路だ。歩行者には歩き易い遍路転がしである。しかし勾配は急だ。10時20分額峠に着く。ここで休憩。昨日お接待でいただいた八朔蜜柑をいただく。甘い!。峠を越えて暫く行くと農家風の人家が一軒忽然と目の前に出現した。一応自動車が通れる粗末な舗装道路があるからと言って、何を好んでこのような隔絶された場所に茶店ならぬ住家があるかと訝ったが、これは小生の誤解であることが直ぐに判明。この峠頂上から高原台地状の地勢となっていて大窪寺方面への遍路道に沿って人家が点在していた。多和と言う名の集落であった。集落の奥へ進むほど道路も幅広く整備されていた。

 間もなく多和橋を渡って左に折れ登坂車道を行く。橋を渡ってすぐ右手に多和小学校あり。どうやらどこからか小生に声を掛けているらしい。運動場から高学年らしい子供達が歩き遍路にエールをおくってくれていた。金剛杖を振ってこれに応える。

3.11時30分、ついに大窪寺の山門が坂の彼方に浮かんだ。桜木も、吹く風に枝を揺らして小生を迎えてくれている。山門に達する。嗚呼、言葉を忘れる。発すべき言葉が無い!

4.4月2日正午、88番結願の寺の本堂に立つ。いつもの事だが、菅笠、金剛杖、リュックは本堂に上がる階段脇に置き、頭陀袋のみ肩にかけて本尊薬師如来に礼拝、納経する。感謝と安堵の高まりからか、本堂.大師堂ともに納経の声が知らず知らずの嗚咽で詰まる。涙が止まらない。37日間、普段以上の最良の体調で事故一つもなく完歩できたのは大師の不思議なご加護の賜物であろう。 「あなうれし ゆくもかえるも とどまるも われは大師と 二人ずれなり」。

大窪寺の御詠歌である。同行二人、と書いて”どうぎょうににん”と読む。

南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛。 合掌

 

 

 

 

 

 

 

 

遍路紀行 36日目 (1997年4月1日) 快晴

行程 

高松市郊外鬼無町の民宿みゆき荘~83番一宮寺高松市一宮町)~84番屋島寺₍同.屋島東町)~85番八栗寺(木田郡牟礼町)~86番志度寺大川郡志度町)~志度寺門前の旅館栄荘まで   歩行距離 35キロ (延べ1131キロ)

この日の出来事など

1.今日から4月。2月25日に1番を打ってあしかけ3ヶ月。朝から快晴。桜花爛漫の高松郊外、横浜より1週間早い。明日が結願かと思うと、かえって今日一日は遅々として長い一日になりそうな予感。7時10分、宿の主人夫妻と名残を惜しみつつ出発。一宮寺まで6キロ強の道のりだが、地図を見ると迷路のような町中の道をジグザグの右折左折を6回ほど繰り返す。必ず迷うと確信する。主人によればこの道は遍路泣かせで、どうやら迷うのは小生だけではなさそうだ。手回しよくご主人が懇切丁寧な地図を描いて渡して下さる。これを頼りに迷路の町並みを何回も道順を尋ね確認しながら通り抜けてゆく。

2.昨夜同宿の女性遍路二人組、小生同様顔が真っ黒で一体何歳か見当がつかぬ。おそらく50歳代と思うが千葉在住の由。先月28日、池田町の民宿で出会った女先生も千葉。意思強く、信仰心篤く、裏を返せば悩み深きは千葉の女人か。さて、この二人組の女性には驚いた。これまでに40回以上も八十八ヶ所を自動車で巡ったとの事である。たとえ自動車でも40回以上とは!真似ができない。事実、見せてもらった納経帖は過去40回以上の朱印の重ね押しによって各ページが朱色で真っ赤になっていて、朱印ごとの判別がつかない。朱肉の科学的影響によるものか、納経帖の和紙が膨れ上がって納経帖がはちきれそうになっている。(八十八ヶ所の寺々では納経帖に納経日を記入しない。理由は2回目以降も同じ納経帖に繰り返し朱印を押してゆくためとか。40回札所を遍路しても40冊の納経帖をつくるものでは無いのが四国遍路の特徴である)。この女性達、今回初めて通しの歩き遍路挑戦だとの事。小生より14日早く、2月11日に1番霊山寺からスタートして今日で50日目。女性の脚力としては素晴らしい記録だが、昨夜の様子では結願を目前にして足が相当まいっているように見えた。あと僅かだ、がんばれ!通しの歩き遍路と食卓を同じくしたのも初めての経験也。如何に同志が少ないか。

3。8時15分、83番一宮寺打つ。町寺。納経所で、件の女性歩き遍路二人組が20分前同寺で納経していること確認。彼女たちは鬼無の宿を6時に出発しているので次の84番への途中で追いつく計算であったが、一宮寺からは高松市街の中へ入ってゆくので84番への道も縦横無数に選択できる。ついに出会うことは無かったが、疲れた体と痛む足でよくぞここまで頑張ったものと思う。畏れと敬意。

4.9時半栗林公園前通過。とにかく暑い。この辺りは高松市中心街。ビルの佇まいは流石に一流大都会だ。行き交うビジネスマン達と乞食遍路のコントラストは何ともミスマッチだが、彼らは特に珍しがる様子も無い。東京の丸の内だったらどうだろうか。間もなく国道11号線に再び合流する。片側3車線、中心部を貫通する11号線を東進する。10時半春日川にかかる新春日橋を渡る。左に高松琴平電鉄志度線の鉄橋を琴電が通過しているのが見える。鉄橋越しに屋島が優美な姿を見せている。屋島台地の右手にケーブルカーの路線らしき山肌の切れ込みが見える。あの横に遍路古道がある。それをこれから登る。ケーブルカーに乗れば楽な遊山なのだが。

5.ケーブルカーを横目に屋島を登る。11時半、84番屋島寺をうつ。標高280メートル。家内と屋島に遊んだのは33年前の昭和39年夏、婚約中の時。曾遊の地との二度目の邂逅は春爛漫の中であった。汗をかいて登った古道を今度はルンルンと下りてゆく。横を走るケーブルカーにも手を振る余裕あり。一旦、高松市内のもと来た道に立ち戻る。八栗寺目指して再び東進開始。名前不明の小さな川を渡る。この川が高松市と木田郡牟礼町の境界になっている。州崎と言う辺り過ぎたころから遍路道は田んぼの畦道へと入ってゆく。昼時だが、今日は市街地の歩き故と思って弁当の用意はしていない。標高210メートルの八栗寺には茶屋もあるだろうからと考え、それまでは空腹のまま頑張って山を登る覚悟を決め何もない畦道を歩いていると、突然畦道脇の森の陰から”うどん本陣山田家”なるうどん屋が出現した。表正面に回って驚いた。銀座通りのごとき客の賑わい。大駐車場。店構えは民芸風大御殿。所は木田郡牟礼町八栗参道。さすがは讃岐である。近隣では有名なうどん店に違いない。とまれ、欣喜雀躍山田家に駆け込む。天ぷらうどん680円。善哉、善哉!

6.元気回復。八栗寺まで200メートルの標高差を一息で登り詰め午後1時半、85番八栗寺を打ち終える。この寺にもケーブルカーが走っている。神仏混淆時代の名残か鳥居が境内に建っている。

7. 遍路紀行から話が少しそれる。神仏混淆の事である。ユダヤ教キリスト教イスラム教などの一神教では唯一絶対神への絶対帰依を説くが、わが国古来よりの神道では「八百万の神々」が信仰の対象であり、良くも悪くも曖昧模糊とした性格が強い。山川草木、この地上に在る物全てに命が宿るとするアニミズムの考えは農耕文明に多く見られるといわれるが、日本神道のやおよろずの神々のルーツはこの辺りに由来するかもしれない。

 一方、地勢的にもユダヤ、キリスト、イスラム教の発祥地の文明圏は原始の昔より狩猟を生活の基盤とする傾向が強く、明日をも知れぬ生命のやり取りに明け暮れる狩猟民族にはすべての事象を包容、包摂する優しさの文化は興るべくもない。YES OR NOの生活環境から生まれた宗教は、「あれも、これも」ではなく「あれか、これか」の二者択一的絶対神を希求する。

 6世紀前半日本に渡来した仏教が当時の上流貴族にいち早く浸透したのも、古来よりの土着宗教である神道が敵対的でなく穏やかにこれを受容し、一方新来の仏教もそのルーツを農耕文明の色合いの強いインドに起源することもあってか、両者が穏やかに融合しながら日本独特の仏教文化を形成して、多少の曲折はありながらも現在の宗教文化を育ててきたものであろう。寺域に鳥居があるのは日本独特の文化所産であり、四国八十八ヶ所にあっても八栗寺以外でも散見する。また、観光者や参拝者もこれを奇異に思う人は少ないと思うが、これも日本的曖昧さ、よく言えば融通無碍、日本的寛容さによるものと思う。初詣でで神社とお寺の二股参拝は当たり前の事である。

 しかし、これを忌避した文化革命が近代の日本で政治主導で起こっている。即ち明治維新新政府による維新初期の廃仏毀釈運動である。スーパー大辞林によれば「明治初年、祭政一致をスローガンとする政府の神道国教化政策・神仏分離政策によって引き起こされた仏教排斥運動。各地で仏堂・仏像・経文などが破棄された」とある。これは神なる絶対性への帰依という思想的宗教改革と言う高次なものでは無く、政治革命にありがちのアンシャンレジーム、即ち旧幕藩体制の思想的文化的残滓を一掃すると言う新体制にありがちのヒステリックな暴挙とも指摘されているが、王政復古後の天皇神道の相関性を強め、天皇制に対する国民の求心力を高めることが真の狙いであったとも考えられる。事実、敗戦後の天皇による天皇人間宣言がこれを示唆するものであろう。余談であるが、廃佛運動の結果現在国宝指定の仏像がゴロゴロ野道に転がっていたとの伝聞も各所に残っている。

8.さて、閑話休題。午後3時過ぎ、志度寺門前の旅館栄荘に着く。荷物を預けて参拝。3時半志度寺を打ち終わる。讃岐路のけだるい春の午後。参拝者の姿全くなく、近所の母親たちが境内で幼児を遊ばせている長閑な風景。境内は広大で昔からの格式の高さを偲ばせる。謡曲「海士」は、大臣藤原房前が自分の母が讃州志度の浦で死んだ海女であると知り志度の浦に下って追善をするかたがた、我が子の将来の為己の命を捨てて竜宮の龍と闘った母の愛に涙する物語であるが、その海女の墓所が本堂横にひっそり立っている。「海士」の玉の段は40年前より小生好んで謡う名曲である。40年という歳月を要してその墓所で供養を兼ねて微吟する。年来の願望叶う。

9.志度町は瀬戸内に臨む漁業の町だ。栄荘旅館はここの網元の由。部屋から穏やかな瀬戸の海と港、更には屋島や親指をニョキと立てたような奇岩で有名な八栗山が見える。今日、上り下りしてここまでやって来た山々だ。夕食はもちろん海の幸尽くし。オコゼの甘煮は圧巻。超美味。鱸の焼き物は丸ごと一匹。鰤,鱸,鰹、鯛、海老の盛り合わせの刺身、牡蠣フライ。さすがの小生も悲鳴を上げた。勿体ないがすべては無理。浴室など付属設備もよく手入れされており,家族連れに向いた割烹旅館である。なお志度湾は牡蠣の養殖地でも知られている由。一泊二食7500円。

 

 

 

 

遍路紀行 35日目 (1997年3月31日) 快晴、春うらら

行程

丸亀プラザホテル~78番郷照寺綾歌郡宇多津町)~79番高照院天皇寺坂出市西庄町)~80番国分寺綾歌郡国分寺町)~81番白峰寺坂出市青海町)~82番根香寺高松市中山町)~高松市鬼無町の民宿みゆき荘まで

歩行距離 38キロ (延べ1096キロ)

この日の出来事など

1.今日と明日は距離的に最後の難関である。今日は38キロ強。東海道線では東京駅/戸塚駅間に近い。明日は35キロ。コースは町寺、山寺と起伏にとんでいるようだ。最後の最後まで息が抜けない展開だ。朝7時半ホテル出発。国道11号線を敬遠して県道33号線を行く。直ぐに宇多津町に入る。宇多津は多度津と並び四国の表玄関である。瀬戸大橋が眼前に大きく迫ってくる。力強い人工の美しさに圧倒されるが、この町の長閑な風情には似合わない。35日前、期待と不安が混じった高揚した気持ちでこの橋を渡り、宇多津駅を経由して高松駅方面へ向かった日の事を思えばまるで夢のごとく、四国を一周してここまで来たとの実感がわかない。

 8時20分、78番郷照寺を打つ。町寺。郷愁を誘う古い町並み。狭い道路が迷路のごとく入り組んでいる。早朝にも拘わらず、バス2台がついて寺は賑わっている。春爛漫の讃岐路には白衣菅笠の遍路がよく似あう。

2.79番天皇寺に向かう。すぐ坂出市に入る。”本街道”という標識が立っている旧街道をゆく。四国の旧道の家並みは皆よく似ている。道の両側の家々の軒は低く、道は狭く、息苦しい。暫く進むとこの街道は”本町商店街”という長大な商店街に変身する。9時を過ぎたばかりなのでガランとしている。長い長~いアーケードだ。自動車も走る。しかもこれ一本のアーケードではなく、縦横にアーケード街が交差する。予讃本線坂出駅を右手に見てこのアーケード商店街を通り抜けるのに10分以上かかった。約1キロ。失礼ながら規模の凄さにびっくりする。暫くしてこの道を右に折れ予讃線の踏切を渡り山麓を進むころからようやく田園風景に変わってゆく。50年前横浜に住んでいたというお婆さんから飴玉3個のお接待をいただく。飴玉の甘味がエネルギーになった。

3.9時40分、79番高照院天皇寺を打つ。ここには”八十八(ヤソバ)の水”と呼ばれる日本武尊ゆかりの名水の泉があって、土地の人に高照院と尋ねてもわからず、やっとの事で「アア、ヤソバさんの事か」と言うような調子でこの寺の名水が親しまれているようだ。天皇寺という変わった名前の由来はかの保元の乱で讃岐に流罪となった崇徳上皇がこの配所で恨みをのんで崩御されたからとか。昨日も桜と西行で触れたように、西行は佐藤義清(のりきよ)と呼ばれた北面の武士の当時から崇徳院との関係は深く、白河、鳥羽、崇徳と言う天皇家を巡る骨肉相食む争いに敗れ讃岐に流された崇徳への思慕や無常の思いから23歳で出家、西行と名を改める。崇徳配流後の朝廷への遠慮もあったか、西行51歳にして漸く讃岐を訪ねたのは崇徳も崩御したあとであった。このように悲しく、切なき悲劇の讃岐で西行法師と所縁の深い桜を全身で堪能できたことは終生忘れえぬ記念となった。なお崇徳上皇の御陵は81番白峰寺にある。

 話をもとに戻す。天皇寺納経所で小生が横浜からの遍路と知った寺の梵妻さんと思しき女性から遥々ご苦労様とねぎらいをいただく。明後日には満願結願の予定と聞いてまじまじと小生の顔を見て、くたびれた様子もなく30数日間も歩き通した姿には見えないと褒めていただく。

4.坂出市から国分寺市に入れば、80番国分寺は指呼の間にある。高松市は隣町。11時5分国分寺を打ち終わる。ついに80番。寺域広大で松林が見事なり。予讃本線の国分駅(なぜか国分寺駅でない)は直ぐ近くである。駅近くの線路際にうどん屋さんあり。”手打ちうどん三島屋”。セルフサービスの定食うどん340円。おいしい。実にうまい。味よし、こしの強さも天下一品。これが本場のうどんか。お世辞にも立派な店とは言えないが、去りがたい思いだ。

5.81番白峰寺は標高350メートルの高地にある。地図ではこの登山路は遍路転がしと表示あるから相当厳しい山坂か。とか思案しながら歩いているうちに道を間違えたらしい。1か月も歩いていると、なんとなく勘が働くのか、間違った方向を辿りだすと頭の中で危険信号が点滅する。かなり山深く踏み込んだか、人も居ないし人家も無い。漸く農家に行き当ったが、広い中庭に獰猛な面構えの犬が吠えまくる。土佐犬か。ウロウロしているうちに、家人が出てきて助かった。結局後戻りとなる。道を教えられ序に八朔蜜柑三個のお接待をいただく。遍路転がしの急坂で息を喘がせながらいただいたこの蜜柑の美味しかったこと。

6.遍路転がしの山道、12時20分から35分かけて登り切る。次第に高度を稼いでゆく山道から後ろを振り返れば、讃岐のシンボルである溜池があちらこちらで春の陽光を受けて鏡が反射するように柔らかく輝いている。突如、自動車道路にでる。白峰寺までの残り4.2キロはこの道を行けばよい。山頂の尾根を走る道路であるが、周囲は樹木密生していて見晴らしがきかない。息苦しい。道の左側は自衛隊の実戦訓練地域とかで有刺鉄線が物々しいが、聞こえるのは鶯の鳴き音のみ。人はもちろん、車も通らない。

7.午後1時半過ぎ、81番白峰寺を打つ。次の82番根香寺(ネゴロジ)も同じくらいの標高の山寺だ。獣道のごとき遍路古道は上ったり、下ったり、本日最後の試練が続く。午後3時根香寺打つ。

 今夜の宿は高松市郊外の鬼無の里。キナシと読む。古い伝説でも残っていそうな名前である。鬼無へ下る道は素晴らしいドライブウエーだ。自動車は殆ど通らない。一点の雲もない紺碧の空とウルトラマリーンの瀬戸内海。屋島高松市街が総天然色のパノラマとなって眼下に展開している。目を遮るものは何もない。絶景!天下の絶景なり。鬼無への下り道はよくも往路にこんなに登ったものと呆れるほどの長いドライブウエーであった。下りれば、鬼無の里は気だるいように長閑な盆栽の里であった。

8.午後4時40分みゆき荘に着く。既に先客3名。こんなに遅い時間の投宿は滅多になかった。矢張り38キロの長丁場であったためか。洗濯一切を宿の奥さんがして下さる。食後部屋に戻ったら衣紋掛けに乾いた衣類がかけられてあった。夜遅くまで主人ご夫婦と同宿の二人連れ女性遍路を交え四方山話に花が咲く。一泊二食5300円とはなんと安いこと!

 

 

 

遍路紀行 34日目 (1997年3月30日) 晴れ

行程

70番門前の一富士旅館~71番弥谷寺(三豊郡三野町)~73番出釈迦寺善通寺市吉原町)~72番曼荼羅寺(同)~74番甲山寺善通寺市弘田町)~75番善通寺(同.善通寺町)~76番金倉寺₍同.金蔵寺町)~77番道隆寺仲多度郡多度津町)~丸亀市の中心街にある丸亀プラザホテルまで  歩行距離 33キロ (延べ1058キロ)

この日の出来事など

1.朝7時、一富士旅館出発。早朝の国道11号線は日曜日の事とて車少なく、加えて昨日とは打って変わった快晴だ。春もうららの陽気なり。心が弾まぬはずがない。歩く楽しさが身を包む。豊中町より高瀬町に入る。今日一日で善通寺市の寺々を中心に札所七ヶ寺を打つ予定。3日かけてやっと一ヶ寺の土佐修行道場の事を思えばアッという間の遍路行である。午前9時、71番弥谷寺山門に着く。ここから本堂までの長い上りの石段に15分程を要した。弘法大師学問所跡の岩屋は幽寂な佇まいを期待していたが、案に相違して観光参拝者や団体遍路さん達で雑踏の場と化しておよそご学問所のイメージとはかけ離れていた。本堂ご本尊納経には靴を脱いで堂内に上がらねばならないが玄関の靴脱ぎ場が満杯で、やむを得ず堂外で靴を脱ぎ土のついた足のまま本堂に上がり納経する。9時半打ち終わる。

2.73番へ向かう。道順上73番から72番への逆打ちが普通。10時から10時半にかけて出釈迦寺曼荼羅寺を次々に打つ。両寺ともに田園地帯に点在する小高い丘の裾にあり長閑な春光を堪能している。あの弥谷寺の喧騒は一体何なのか。有名と無名の違いなのか。弥谷寺には参拝者が溢れていたのだから、72番、73番に遍路バスが殺到しているかと思いきや、ガランとしている。素通りなのかしら。判らぬ。しかし小生には鎮まりかえる本堂、大師堂での納経は忘れえぬ最高に幸せなひと時であった。理由は桜である。桜、桜だ。いずこを向いても万朶の桜。「ねがはくは花の下にて春死なむその如月のもち月のころ」と詠んだ西行法師の心境も斯くばかりか。西行と言えば、保元の乱で敗れ讃岐に配流されたまま憤死した崇徳院の跡を弔うために51歳の秋に讃岐を訪ね、翌年まで当地に留まっていたので、あるいは讃岐の桜花を目にしていたかもしれない。西行法師の心を我が心としたい。これはうぬぼれ。春うららの一刻を全身で満喫する。

 この辺り溜池多く,池端の道は湿めり気味でじめじめしている。蝮は湿った場所が好みのはずだ。花遍路の季節から秋までの間は蝮がとぐろを巻いて通せん坊していそうな草深い不気味な池辺の野道である。桑原、桑原!さて、10時50分、74番甲山寺を打つ。田んぼに囲まれた里の寺だ。風が強い。桜の枝が騒いでいるが、花はこれからが盛りとみえて散っていない。

3.11時15分、75番善通寺門前に着く。大師誕生寺の名刹だけあって、その結構な壮麗さは札所随一の大伽藍と言われるゆえんである。本堂と大師堂を結ぶ境内の参道は浅草の仲見世を思わせる店店が並び、観光バス遍路バスで続々と到着する善男善女の群れで大混雑である。大師堂は流石に目を見張る結構な建築で,本堂を凌ぐ壮大さである。12時善通寺打ち終わる。

4.76番金倉寺へ向かう。この辺り、まだ善通寺門前町か。町名も善通寺町。古い家並みが密集し軒を連ねる狭い小路を抜け、4車線の立派な自動車道に出る。車は皆目走っていない。快晴。暑い。土讃本線の踏切を渡ると国道319号線に突き当たる。右に折れ真っ直ぐ南進すれば琴平宮である。左に折れて北進、76番へ向かう。12時40分金倉寺をうつ。

5.77番道隆寺へ。間もなく善通寺市から多度津町に入る。午後1時35分道隆寺を打つ。今日は讃岐平野の真っただ中の札所めぐりの為、特に73番から77番までは春風の中を身も心も軽く駆け抜けた。道隆寺へ向かう多度津の町中から瀬戸大橋がチラリと垣間見えた。あの橋を渡る日もすぐだ。ふと、里心が沸く。

6.道隆寺を出ればすぐ丸亀市に入る。予讃線の線路越しに瀬戸内海を左に眺めながら県道33号線を丸亀市街目指して進む。依然として快晴が続く。春爛漫の丸亀であった。心も体も軽く弾む。34日も歩き続けると、今日の歩行距離である33キロなどは意に介さなくなる。33キロと言えば東海道線の東京駅/東戸塚駅手前の距離に相当する。訓練を重ねて体を慣らせば苦しさにも順化するのが人の体か。不可思議な存在。午後2時半、丸亀城公園を真正面に見る丸亀プラザホテルにチェックインする。個室で寛ぐ。部屋から丸亀城が手に取るがごとくまじかに見える。朝食付き6150円。このホテルも宇和島のリージェントホテル同様洗濯機、乾燥機を備えてくれている。場所は地下駐車場の隅。

 

 

 

 

 

遍路紀行 33日目 (1997年3月29日) 曇りのち雨

行程 

徳島県池田市の民宿岡田~66番雲辺寺(同.池田町)~67番大興寺香川県三豊郡山本町)~68番神恵院、69番観音寺(同.観音寺市八幡町)~70番本山寺(同.三豊郡豊中町本山)~本山寺門前の一富士旅館まで  歩行距離 30キロ (延べ1025キロ)

この日の出来事など 

1.朝、雨を覚悟していたが道路がしっとり濡れている程度だ。ただ、いつ雨が降り出してもおかしくない今朝の空。降り出す前に標高910メートルの雲辺寺に出来るだけ登っておこうと、6時45分岡田さん老夫婦に見送られて出発。昨夜の女先生は今朝6時出発したそうな。道は直ぐに集落の狭い自動車道路から外れ、樵道のような遍路古道に分け入る。山の斜面にしがみつく様にジグザグに鋭角に折れながら天に伸びている。けものも登らぬような崖に遍路道がへばりついている。冗談ではない、これでは遍路転がしどころか遍路殺しである。雨は止んでいるが、道を塞ぐ草木をかき分け進むため上から下まで完全防水装備の雨具を通し雨滴が体にしみ込んでくる。岩や倒木が至る所に転がり歩行を妨げる。菅笠をぶつけぬよう倒木の下を這うようにくぐったり、あるいは倒木を跨ぎ乗り越えて一歩一歩高度をかせいでゆく。この遍路道は岩石もごろごろ転がっていて、落石にも要注意であった。

2.宿を発つとき、老主人が雨雲の切れ目から遥かに高くそびえる山頂近くに垣間見える送電用鉄塔を指して、あそこまで登れば自動車道に合流し歩行も楽になると話していたがまさにその通り。約1時間の苦闘ののち展望が急にひらけたと思ったら鉄塔が直ぐまじかに見え、道も平坦となっていた。午前7時50分。周り一帯は蓮華畑が広がるパラダイスで、周りの山々も小生の目の下か殆ど目線と並行になってきている。ここで宿より5キロの地点のはずだから、目指す雲辺寺まではあと2.5キロ。楽な歩行となった。苦あれば楽あり。”四国の道”案内板も平坦な広場に立っている。案内板上の管理者名も香川県と表示されている。雲辺寺自体は行政上徳島県に属しているが、昔より讃岐涅槃道場は66番雲辺寺から始まり結願寺88番大窪寺でおわる。

3.午前8時20分、66番打ち終わる。参拝者は小生のみ。雨に煙る鬱蒼たる杉木立の境内、ひとり心静かに納経。標高900メートル強の境内を吹く風は汗まみれの身には冷たく寒い。周囲の山々はすべて目の下にある。案内書では池田町の登山口より雲辺寺まで登攀約3時間所要となっているが、半分で済んだ。

4.67番大興寺へ。今度は下りだ。狭く急な悪路。木立の合間から左側に雲辺寺ロープウエーの駅舎が見える。雲辺寺駅であろう。そうかロープウエーもあったのか。楽しいだろうな。下山間もなく徳島県より香川県に入る。ついに遍路道程最後の讃岐の国に来た。午前10時漸く人里と接触。地図では粟井町というらしい。眼下にみえる香川平野には溜池が無数に点在している。このような溜池の風景は四国では初めて見る風景である。さすがに弘法大師満濃池で知られる土地柄だけあって、讃岐の国は大小無数の溜池だらけであった。幼いころ、大阪生駒連山中腹からの河内平野遠望の光景がオーバーラップして鮮明によみがえった。河内地方にも溜池が多かった。今は殆どが大阪のベッドタウンとなって住宅地に変貌しているだろうが、願わくば讃岐の国にあっては永遠にこの牧歌的な山河を大切に守ってほしいものだ。

5.午前10時40分、67番大興寺を打つ。小雨降り続く。ミニバス遍路3台あり。案の定うるさくて心が鎮まらない。車遍路も我が仲間。彼らとの出会いを大事にして,和顔愛語を説くお大師さんの教えを守るのが遍路の心得であるにかかわらず、最近は団体遍路とみれば騒然とした境内に加え納経所でのうんざりするほどの順番待ちと乗り物への羨望などがない交ぜになって嫉妬、舌打ちする我が心の狭量さがなんとも情けない。孤高の志を悪いとは思わないが、人を受容し睦む心が出来ていない。体が疲れていれば、心も病むか。何のための遍路か。人を愛せよ。

6。 神恵院へ向かう。途中国道377号線に合流し田野の中の自動車道を真っ直ぐに西進する。反対側の歩道を67番大興寺方面へ逆進する歩き遍路らしき男性に気づく。相手も小生に気づく。車が疾駆する4車線の横断は危険であったが、何とか合間を縫って横断、彼に駆け寄り挨拶を交わす。車遍路との接触は毎日数を知らぬほど無数の出会いがあるが、歩き遍路との接触は稀有なことだから、ことほど左様に同志的感情が生まれる。相手も同様だろう。彼、40歳代。汚れて顔も真っ黒。彼も小生を見て同じ思いだろう。彼はなんと逆打ち遍路中の由。脱帽。

 逆打ちはいい加減な気持ちでは出来ない。小生の遍路行を順打ちという。1番札所から88番へ順を追って辿ってゆく。遍路標識も順打ちを前提に町中、山路を問わず要所、要所に土地の方々が立ててくださっている。それでも迷う。逆打ちは88番をスタートして1番へ向かう。遍路道標は逆打ち遍路用は無い。進行方向の決断は地図と勘に頼るだけ。小生には逆打ちをする覚悟と勇気は無い。では何故逆打ちをするか。順打ちよりも功徳ご利益が大きいから。苦の濃密さに比例して喜びも倍加する。功徳ご利益の最高なるものが遍路中に100パーセント確実に大師に巡り合えるということ。お大師さんも常に八十八ヶ所を歩いておられるという言い伝えがある。それも順打ちで。従って順打ち遍路の場合、お大師さんに追いつき追い越してこそお会いできる。100パーセント確実にはお会いできないのが順打ちである。非礼な表現であるが逆打ちは必ずどこかでお大師さんと正面衝突する。大師信仰の篤い信者程逆打ちを願望する所以である。また最近は冒険心から逆打ちする若者もいると聞く。

 彼我、互いに目指す道順を教え合い真っ黒な手で握手、エールを交換して別れる。

7.昼過ぎ、12時40分雨の68番神恵院、69番観音寺を同時に打つ。両寺の本堂、大師堂は別々だが境内は同じ。また山門、納経所も共同である。雨を避けて観音寺本堂の回廊をお借りしてお握り弁当を開く。背からおろしたリュックの上に7~8センチはあろうか大きな毛虫がへばりついていた。どのあたりからの同行二人であったのであろうか。

8。70番本山寺目指し雨の財田川堤防上の遍路道を行く。観音寺市と三豊郡豊中町を分ける財田川の遍路道は4.7キロと長い。この堤防上の遍路道でたった一人だけ出会った老婆から傘もささず可哀相と声を掛けられる。菅笠が傘代わりで、雨に強い雨具で身を固めているからこの程度の雨はなんともないと説明、納得。話は小生の遍路行に及び、今日で33日間毎日歩き通しだと語ったら「オワカイのにエライなーー」と62歳のオッサンが褒められた。

9.午後2時半、70番本山寺打つ。札所には数少ない五重塔が雨に打たれていた。雨も時には風雅、優美の極致の彩を添えてくれる。

10.午後3時、70番門前遍路宿の一富士旅館投宿。通された部屋は本床、違い棚付きで12畳敷の豪華な日本間。通常、宿に着くと靴を脱ぐ前に金剛杖をまず洗う。杖はお大師さんの化身であるから部屋では上座に立て掛ける。遍路にとっては毎夕の大切な儀式である。従って部屋に通されるとまず上座を探す。大方が床の間が無い故である。しかし今日は迷わず床の間に立てる。テレビ有料2時間100円。夕食も部屋に恥じず豪華。何人分かと見紛う刺身の盛り合わせ,鰤の照り焼き、海老甘煮、、鶏肉ロースト,烏賊の煮つけ、ぬたの和え物などなど。デザートは苺とバナナ。同宿人無く大広間の食堂で我独りだけ。ご飯は4杯。(いつもの事)。口数は少ないが女将さんの親切なもてなしが嬉しい。一泊二食6500円。

 

 

 

 

遍路紀行 32日目 (1997年3月28日) 晴れ

行程 

宇摩郡土居町の蔦廼家旅館~伊予三島市を経て65番三角寺川之江市金田町)~徳島県三好郡池田町の民宿岡田まで  歩行距離 33キロ (延べ995キロ)

この日の出来事など  

1.朝7時半旅館出発。昨日同様国道に並行して旧街道が通っているので歩行が楽しい。間もなく伊予三島市に入る。豊岡とか寒川という町を通り抜けて午前11時10分、65番三角寺を打つ。

 65番への途中、伊予三島市街で右折すべきポイントを見過ごして直進。渋滞する片側一車線の狭い自動車道路で地図と首っ引きでウロウロしている小生を見かねたか、タクシーの運転手さんが態々車を停めて65番への道を教えてくれる。何度も言うようだが、とにかく町中の道はややこしい。迷い迷って国道11号線を逸れて三角寺方面への遍路道にようやく入る。30分のロス。道は彼方の山へと向かう。松山自動車道が山麓に沿って走っている。そのガード下をくぐりぬけ山道にかかるや曲がりくねる急坂遍路道となる。しかし眺望は素晴らしい。目を遮るものが無い。喘ぎながらも高度をかせぐにつれて眼下には紺青の瀬戸内の海と伊予三島市の製紙工場群が一望の下。素晴らしきパノラマ。約1時間に及ぶ苦しい登坂行の甲斐があった。 

2.三角寺では団体遍路と遭遇せず、古格な山寺の静けさの中に沈潜する。突き抜けるように澄み切った青空を背に桜満開の三角寺。気が付けば3月もあと数日を残すのみ。伊予の国とも今日でお別れだ。歩いた距離もほぼ1000キロ。美しい自然と山寺の静謐に包まれて、あらためて夢中で駆け抜けてきた32日間の事を思うと急にこみあげるような嬉しさが沸き上がって来た。

3.午後1時番外札所椿堂で納経。ここは65番から下って来た山道が国道192号線と合流するポイント。192号線の緩やかだが延々と長い上り坂を一路徳島県池田市を目指して歩く。伊予道場の次は讃岐道場にはいるわけだが、行程上は一旦徳島・阿波の国へ入る。午後2時15分、192号線の境目トンネル(855メートル)に達す。ここを抜ければ徳島県である。このトンネルは幅が狭いにもかかわらず立派な歩道があった。楽な歩きだ。トンネルを抜けると右手山側に”水車”という民芸調の大うどん店があった。中途半端な時間の為目をつぶって通過。未練一杯。

4.午後2時20分、民宿岡田に着く。テレビの遍路番組ではここの女将さんが度々登場する。70近いはずだが若つくりの女将さんだ。大きな声で言いたいことをはきはきと言う名物女将として遍路の世界では有名らしい。肝っ玉母さんの風格がある。それにしても土居町から三角寺を経て2時過ぎに到着した小生には心底驚いたようすであった。お褒めにあずかってこちらも大変うれしかった。一泊二食5500円。

5.夜遅く女性の歩き遍路が投宿。千葉から夜行の川之江市行き直行バスで65番経由ここにたどり着いたらしい。春休み利用の分け打ちの歩き遍路の由。歩き遍路には全行程を一気に歩きぬく通し打ちと、何回かに分割して全行程を歩く分け打ちがある。仕事を持つ人にはこれが一番だ。聞けば彼女は学校の先生。30歳代、女身で一人遍路。えらいものだ。分け打ちの体験も十分積んでいる。明日の66番雲辺寺への遍路転がしの難路挑戦も立派にやり遂げることができますように。、