遍路紀行 36日目 (1997年4月1日) 快晴

行程 

高松市郊外鬼無町の民宿みゆき荘~83番一宮寺高松市一宮町)~84番屋島寺₍同.屋島東町)~85番八栗寺(木田郡牟礼町)~86番志度寺大川郡志度町)~志度寺門前の旅館栄荘まで   歩行距離 35キロ (延べ1131キロ)

この日の出来事など

1.今日から4月。2月25日に1番を打ってあしかけ3ヶ月。朝から快晴。桜花爛漫の高松郊外、横浜より1週間早い。明日が結願かと思うと、かえって今日一日は遅々として長い一日になりそうな予感。7時10分、宿の主人夫妻と名残を惜しみつつ出発。一宮寺まで6キロ強の道のりだが、地図を見ると迷路のような町中の道をジグザグの右折左折を6回ほど繰り返す。必ず迷うと確信する。主人によればこの道は遍路泣かせで、どうやら迷うのは小生だけではなさそうだ。手回しよくご主人が懇切丁寧な地図を描いて渡して下さる。これを頼りに迷路の町並みを何回も道順を尋ね確認しながら通り抜けてゆく。

2.昨夜同宿の女性遍路二人組、小生同様顔が真っ黒で一体何歳か見当がつかぬ。おそらく50歳代と思うが千葉在住の由。先月28日、池田町の民宿で出会った女先生も千葉。意思強く、信仰心篤く、裏を返せば悩み深きは千葉の女人か。さて、この二人組の女性には驚いた。これまでに40回以上も八十八ヶ所を自動車で巡ったとの事である。たとえ自動車でも40回以上とは!真似ができない。事実、見せてもらった納経帖は過去40回以上の朱印の重ね押しによって各ページが朱色で真っ赤になっていて、朱印ごとの判別がつかない。朱肉の科学的影響によるものか、納経帖の和紙が膨れ上がって納経帖がはちきれそうになっている。(八十八ヶ所の寺々では納経帖に納経日を記入しない。理由は2回目以降も同じ納経帖に繰り返し朱印を押してゆくためとか。40回札所を遍路しても40冊の納経帖をつくるものでは無いのが四国遍路の特徴である)。この女性達、今回初めて通しの歩き遍路挑戦だとの事。小生より14日早く、2月11日に1番霊山寺からスタートして今日で50日目。女性の脚力としては素晴らしい記録だが、昨夜の様子では結願を目前にして足が相当まいっているように見えた。あと僅かだ、がんばれ!通しの歩き遍路と食卓を同じくしたのも初めての経験也。如何に同志が少ないか。

3。8時15分、83番一宮寺打つ。町寺。納経所で、件の女性歩き遍路二人組が20分前同寺で納経していること確認。彼女たちは鬼無の宿を6時に出発しているので次の84番への途中で追いつく計算であったが、一宮寺からは高松市街の中へ入ってゆくので84番への道も縦横無数に選択できる。ついに出会うことは無かったが、疲れた体と痛む足でよくぞここまで頑張ったものと思う。畏れと敬意。

4.9時半栗林公園前通過。とにかく暑い。この辺りは高松市中心街。ビルの佇まいは流石に一流大都会だ。行き交うビジネスマン達と乞食遍路のコントラストは何ともミスマッチだが、彼らは特に珍しがる様子も無い。東京の丸の内だったらどうだろうか。間もなく国道11号線に再び合流する。片側3車線、中心部を貫通する11号線を東進する。10時半春日川にかかる新春日橋を渡る。左に高松琴平電鉄志度線の鉄橋を琴電が通過しているのが見える。鉄橋越しに屋島が優美な姿を見せている。屋島台地の右手にケーブルカーの路線らしき山肌の切れ込みが見える。あの横に遍路古道がある。それをこれから登る。ケーブルカーに乗れば楽な遊山なのだが。

5.ケーブルカーを横目に屋島を登る。11時半、84番屋島寺をうつ。標高280メートル。家内と屋島に遊んだのは33年前の昭和39年夏、婚約中の時。曾遊の地との二度目の邂逅は春爛漫の中であった。汗をかいて登った古道を今度はルンルンと下りてゆく。横を走るケーブルカーにも手を振る余裕あり。一旦、高松市内のもと来た道に立ち戻る。八栗寺目指して再び東進開始。名前不明の小さな川を渡る。この川が高松市と木田郡牟礼町の境界になっている。州崎と言う辺り過ぎたころから遍路道は田んぼの畦道へと入ってゆく。昼時だが、今日は市街地の歩き故と思って弁当の用意はしていない。標高210メートルの八栗寺には茶屋もあるだろうからと考え、それまでは空腹のまま頑張って山を登る覚悟を決め何もない畦道を歩いていると、突然畦道脇の森の陰から”うどん本陣山田家”なるうどん屋が出現した。表正面に回って驚いた。銀座通りのごとき客の賑わい。大駐車場。店構えは民芸風大御殿。所は木田郡牟礼町八栗参道。さすがは讃岐である。近隣では有名なうどん店に違いない。とまれ、欣喜雀躍山田家に駆け込む。天ぷらうどん680円。善哉、善哉!

6.元気回復。八栗寺まで200メートルの標高差を一息で登り詰め午後1時半、85番八栗寺を打ち終える。この寺にもケーブルカーが走っている。神仏混淆時代の名残か鳥居が境内に建っている。

7. 遍路紀行から話が少しそれる。神仏混淆の事である。ユダヤ教キリスト教イスラム教などの一神教では唯一絶対神への絶対帰依を説くが、わが国古来よりの神道では「八百万の神々」が信仰の対象であり、良くも悪くも曖昧模糊とした性格が強い。山川草木、この地上に在る物全てに命が宿るとするアニミズムの考えは農耕文明に多く見られるといわれるが、日本神道のやおよろずの神々のルーツはこの辺りに由来するかもしれない。

 一方、地勢的にもユダヤ、キリスト、イスラム教の発祥地の文明圏は原始の昔より狩猟を生活の基盤とする傾向が強く、明日をも知れぬ生命のやり取りに明け暮れる狩猟民族にはすべての事象を包容、包摂する優しさの文化は興るべくもない。YES OR NOの生活環境から生まれた宗教は、「あれも、これも」ではなく「あれか、これか」の二者択一的絶対神を希求する。

 6世紀前半日本に渡来した仏教が当時の上流貴族にいち早く浸透したのも、古来よりの土着宗教である神道が敵対的でなく穏やかにこれを受容し、一方新来の仏教もそのルーツを農耕文明の色合いの強いインドに起源することもあってか、両者が穏やかに融合しながら日本独特の仏教文化を形成して、多少の曲折はありながらも現在の宗教文化を育ててきたものであろう。寺域に鳥居があるのは日本独特の文化所産であり、四国八十八ヶ所にあっても八栗寺以外でも散見する。また、観光者や参拝者もこれを奇異に思う人は少ないと思うが、これも日本的曖昧さ、よく言えば融通無碍、日本的寛容さによるものと思う。初詣でで神社とお寺の二股参拝は当たり前の事である。

 しかし、これを忌避した文化革命が近代の日本で政治主導で起こっている。即ち明治維新新政府による維新初期の廃仏毀釈運動である。スーパー大辞林によれば「明治初年、祭政一致をスローガンとする政府の神道国教化政策・神仏分離政策によって引き起こされた仏教排斥運動。各地で仏堂・仏像・経文などが破棄された」とある。これは神なる絶対性への帰依という思想的宗教改革と言う高次なものでは無く、政治革命にありがちのアンシャンレジーム、即ち旧幕藩体制の思想的文化的残滓を一掃すると言う新体制にありがちのヒステリックな暴挙とも指摘されているが、王政復古後の天皇神道の相関性を強め、天皇制に対する国民の求心力を高めることが真の狙いであったとも考えられる。事実、敗戦後の天皇による天皇人間宣言がこれを示唆するものであろう。余談であるが、廃佛運動の結果現在国宝指定の仏像がゴロゴロ野道に転がっていたとの伝聞も各所に残っている。

8.さて、閑話休題。午後3時過ぎ、志度寺門前の旅館栄荘に着く。荷物を預けて参拝。3時半志度寺を打ち終わる。讃岐路のけだるい春の午後。参拝者の姿全くなく、近所の母親たちが境内で幼児を遊ばせている長閑な風景。境内は広大で昔からの格式の高さを偲ばせる。謡曲「海士」は、大臣藤原房前が自分の母が讃州志度の浦で死んだ海女であると知り志度の浦に下って追善をするかたがた、我が子の将来の為己の命を捨てて竜宮の龍と闘った母の愛に涙する物語であるが、その海女の墓所が本堂横にひっそり立っている。「海士」の玉の段は40年前より小生好んで謡う名曲である。40年という歳月を要してその墓所で供養を兼ねて微吟する。年来の願望叶う。

9.志度町は瀬戸内に臨む漁業の町だ。栄荘旅館はここの網元の由。部屋から穏やかな瀬戸の海と港、更には屋島や親指をニョキと立てたような奇岩で有名な八栗山が見える。今日、上り下りしてここまでやって来た山々だ。夕食はもちろん海の幸尽くし。オコゼの甘煮は圧巻。超美味。鱸の焼き物は丸ごと一匹。鰤,鱸,鰹、鯛、海老の盛り合わせの刺身、牡蠣フライ。さすがの小生も悲鳴を上げた。勿体ないがすべては無理。浴室など付属設備もよく手入れされており,家族連れに向いた割烹旅館である。なお志度湾は牡蠣の養殖地でも知られている由。一泊二食7500円。