遍路紀行 31日目 (1997年3月27日) 曇り、のち晴れ

 

行程 

小松町の旅館小松~63番吉祥寺(西条市氷見)~64番前神寺(同.州之内〉~宇摩郡土井町の蔦廼家旅館まで  歩行距離 33キロ (延べ962キロ)

この日の出来事など 

1.昨夜の雨は今朝は小降りになっている。今回の遍路行では”夜は雨、明ければ晴れ”の幸運に一再ならず恵まれる。7時旅館出発。この辺りの11号線は人の歩行を全く考えてくれていない。歩道がない。それかあらぬか、歩行者は小生以外影も形も無い。自動車の流れは絶え間なく、それもトラックが圧倒的に多い。体に触れんばかりに、猛スピードで飛沫を上げて驀進するダンプカー。排気ガスで喉がおかしい。四国では、遍路を轢き殺したらその罪九族に及ぶといわれているので運転者は歩き遍路に優しいと聞かされていたが、どうしてここではまるで絵空事だ。身を縮めるようにして歩く。旅館を出て10分ほどで小松市から西条市に入る。

2.7時20分63番吉祥寺を打つ。町寺だ。大型バス2台の団体遍路で今朝もにぎやかだ。100名位か。これまでの30日間は偶にバス遍路1台か2台に出会う程度で気にもかけなかったが、昨日今朝のような事態にあちこちで遭遇することになるとこれは困る。その日の歩きスケジュールに影響する。いよいよ3月下旬から遍路の季節が始まったか。小生の納経の声も彼らの納経大合唱の前に途切れがちである。一方、納経所で御朱印を押している女性はこの寺の梵妻さんであろうか、にこりとも笑顔も見せず、黙々と恰も無言の行を守るがごとく”仕事?”をこなしているかの印象也。

3.8時10分、64番前神寺打つ。小高い山の麓にあり、先ほどの町寺とは対蹠的に静かな佇まいである。さっきの大型バスが先着していたが、既に出発直前でかち合いは避けられた。バス遍路さんたちの陽気な声と一緒にバスが去った後は幽邃森厳な霊場に戻る。聞こえるのは鶯の鳴き声のみ。我独り。誰はばからず心ゆくまで心経を納経する。

4.前神寺からは今夜の宿泊先の土居町まで28キロをひたすら歩く。幸いなことに国道11号線と並行して昔からの旧街道が遍路道として残っている。西条農業高校近辺は桜祭りのぼんぼりや提灯飾りで華やかな空気だ。桜並木は薄桃色に染まっている。少し離れた左手の国道は車の帯が出来ているが、我が歩くこの旧街道は古い民家と長閑な田んぼのある古き良き遍路道である。詩心の無いものも詩情を感じずにはいられまい。

5.新居浜市に入る。ここでも有難いことに国道を左に見て、狭い道幅ながらも旧街道をのんびりと歩ける。延々と続く旧街道。延々と続く時代劇さながらの長屋風の家並みは民家か或いは居眠っているかのような商店。〝舩木国道 遍路道合流点”という標識のあるポイントで、一旦11号線に入る。再び車への恐怖。思わず緊張が走る。ここから暫くは一直線の長い登坂の峠越えである。越えれば新居浜市から土居町に入る。

6.午後1時20分土居町に入る。国道11号線はエンジン全開で峠を上る大型トラック群の排気で汚染。全身汗と埃にまみれた苦闘。有り難いことに土居町にも旧道の脇道があり、これが遍路道となっていた。楽しき哉、旧街道!午後2時30分番外霊場延命寺、別称いざり松を打つ。歩き遍路に限り納経料300円はお接待してくださった。

7.今夜の宿の蔦廼家は此処より5分ほどのところ。JR伊予土居駅の近く。この旅館は料理屋として昭和8年創業の由緒ある料理旅館だそうで、およそ乞食遍路には不似合いな宿であったが、ほかにこの辺りには宿がないためやむを得ない。同じ理由で歩き遍路もよく利用するそうだ。今は2階を洋風ホテルスタイルに改装して料理と宿泊兼営との事である。夕食は一般客用の食堂で外来客と同席。瀬戸では蝦蛄(しゃこ)が名物と岡山生まれの家内からよく聞かされていたが、なるほど蝦蛄の甘煮は圧巻であった。舟盛刺身、貝の吸い物などすべて瀬戸内の海の幸尽くし、これで一泊二食6963円也。

8.隣の席で一人晩酌の品の良い老人(後で74歳とわかる)が小生に話しかけてきた。話しているうちに小生が横浜からの遍路とわかり、彼も相鉄沿線の和泉区から来たと名乗る。ぼそぼそと身の上話を語るこの老人によれば、土居町は彼の生まれ故郷でこの旅館の先代の主人とは中学の同窓でその誼で此処に宿泊している。老妻には3年前に死別、たった一人きりの娘には去年先立たれ今は逆縁の悲運に沈んでいる。天涯孤独の身となった今、望郷の思いやみ難く余生を生まれ故郷で過ごすべく昭和12年に当地を離れて以来の再訪となったが、既に今浦島にして故郷の面影はもとより友人、知人も探し当らない。不運、不幸をかこつ一人ぼっちの老人の悲哀。なんともやり切れぬ憂き世の無情が身に染みて悲しい。慰める言葉もなく、互いに明日の健康と無事を祈り合って席を立つ。

 

 

遍路紀行 30日目 (1997年3月26日) 晴れ、夕方より雨

行程

周桑郡丹原町の栄家旅館~60番横峰寺(周桑郡小松町)~61番香園寺(同)~62番宝寿寺(同)~宝寿寺門前のビジネス旅館小松まで               歩行距離 30キロ (延べ929キロ)

この日の出来事など 

1.朝7時栄家旅館出発。姿が小さくなっても手を振っている栄家旅館の奥さん。33番雪蹊寺門前宿の高知屋の奥さんと同じだ。いざ、石鎚中腹1000メートルの横峰寺へ。7時30分中山川に架かる石鎚橋を渡ると,すぐに山間の上りにかかる。山間の集落を進んでいると、自宅門前で手招きしながら小生を待ち受けているらしい中年の男性がいた。家でお茶を飲んでいってほしいとお接待の誘いを受ける。遠慮なく玄関奥の事務室のソファーに座り、ご主人が淹れたコーヒーをいただく。日野さんというこのご主人,石鎚橋の近くで小生を自動車で追い越した時に小生の歩きぶりが目にとまって、お接待かたがた遍路話を聞きたくて、自宅前で小生を待っていた由。彼も以前亡母健在の時、部分打ちだが母親と車遍路をした経験があり、全行程通しの歩き遍路の尊さを身に染みて感じているなど20分ほど遍路談義に花が咲いた。お名残り惜しいがと腰を上げる小生に、それではと奥から特大の伊予柑5個を持ってきて途中でぜひ食べて欲しいとのお接待をいただく。それでなくとも重いリュックが重かったことか。しかし喘ぎ登る横峰寺への山中で食したこの伊予柑は余程選りすぐったものとみえて、実に美味で全身に元気がしみわたる感じであった。人の情けの重さにしみじみと合掌。

2.8時50分、石鎚山系登山ベースキャンプ地である湯浪部落通過。この辺りから谷間はいよいよ狭まり山は深まってゆく。9時10分横峰寺登り口着。ここに「横峰寺参拝者への注意事項」なる掲示板あり。曰く。”単独登山はしない。グループごとにリーダーをつくり云々ーーーー”とあるが、一人だけの歩き遍路の身では今更如何ともしがたい。決行あるのみ。村道から人一人がやっとの獣道と思しき登山道に踏み込む。手で這い登る急坂との格闘。途中、あと2.2キロの道標あり。平地ならばルンルンの距離が今は煉獄の苦しみだ。さすがに湯浪部落ルートは遍路転がし中の最難関といはれるだけの事はある。通常、歩き遍路は湯浪ルートを敬遠し、59番国分寺を打ち終わった後61番香園寺を目指し、そのあと60番への逆打ちルートを登る。そして再び同じ道を61番へ下り62番を目指す。小生は二つの選択肢のうち、真正面からの順打ちルートに挑戦してしまった。午前10時15分、横峰寺山門に到る。10時45分納経、無事打ち終える。

3.61番への9.9キロの遍路道は殆ど下り急坂である。歩いても歩いても今度は際限なく下り坂が続く。逆に言えばこれだけの高さを登ったことになる。無我夢中の人の力はおそろしいエネルギーを発揮する。

 正午ごろ眺めのよい岩場に腰かけて栄家旅館の奥さん手作りのお握り弁当を開く。そこへ60代ぐらいの地元の樵風の人らしき男性が木陰からヒョイと突然現れたのにはお握りを落とすほどにびっくりした。全遍路道の半分以上が人も稀なる寂しい山中の古道であるが、山中での人との遭遇は後にも先にもこれが唯一の体験であった。人懐かしいというより、山賊(失礼!)にでも出会ったような不気味な一瞬であった。相手の男性もギョッとした顔つきだったが、さりげなく互いに挨拶を交わす。

4.午後零時半61番香園寺奥の院を打ち、更に山を下って同1時10分香園寺を打ち終わる。本堂は鉄筋コンクリート造りのビルで、寺域全体の雰囲気も大学のキャンパスの感じである。四国霊場の古格な佇まいは感じられない。本堂の内部も何百脚もの椅子が整然と配置され、さしずめ大学の大教室の感がある。とはいえ、この寺は子授け安産の寺として知る人ぞ知る古刹である。この6月に生まれ来るであろう初孫の安産を祈願しお守りをいただく。境内の桜、既に八分咲き。冬枯れの阿波から一か月かけて花爛漫の伊予讃岐にたどり着いた。

5.午後2時、62番宝寿寺をうつ。この寺は国道11号線に沿う町寺だ。トラックの騒音に絶え間なく囲まれて落ち着かない。加えてバス団体遍路の大群と遭遇したため、納経所は戦場の様相を呈している。うず高く積まれたバス遍路さん達の納経帖を前に納経所の寺男達が怒ったような顔つきで黙々と納経帖に朱印を押し、墨書している。

6.喧騒の納経所で小一時間かかって何とか朱印を戴き、予讃本線伊予小松駅近くのビジネス旅館小松に午後3時20分着く。玄関を開けて案内を乞うも応答なく無人。フロントめいた場所に連絡先電話番号を記した伝言板を見つける。暢気で鷹揚なものと感心しながら電話をする。やっとの事で通された部屋は洋間であった。エアコンヒーター利用料1時間100円。手洗い、洗面所は2階まで行く不便さはあったが一泊二食5000円。年配の女主人が一人で一生懸命世話を焼いてくれるが、ほかに宿泊者もいて手が回らず気の毒なり。内風呂が修理中の為歩いて一分の銭湯を利用できるよう手配してあるので,すまないが銭湯に行ってほしいとの事。これも旅の一興でむしろ面白い。雨も降りだして、底冷えのする寒い夕方であったが、旅館の浴衣のまま傘無しで走る。お世辞にも今風の銭湯とは似ても似つかない。セピア色がよく似合うだろう戦前の銭湯にタイムスリップしたかの印象だ。番台にはこれまた古色蒼然の枯れたようなお爺さんが座っているのが嬉しい。良く温まり蘇生して機嫌よく旅館に戻る。奥さんに良い体験だったと礼を言い喜んでもらう。夕食はミニバス遍路さん一行8名と食卓を囲んで豚肉の水炊き、牛肉の刺身をいただき、あと賑やかに一刻を過ごす。

遍路紀行 29日目 (1997年3月25日) 快晴

行程

今治市のホテル青雲閣~56番泰山寺今治市小泉)~57番榮福寺(越智郡玉川町)~58番仙遊寺(同)~59番国分寺今治市国分)~周桑郡丹原町の栄家旅館まで

歩行距離 32キロ (延べ899キロ)

この日の出来事など

1.昨日買っておいたパンとコーヒーで朝食済ませ7時青雲閣出発。56番へは南光坊の脇を通り抜けて今治市街地を南西に真っ直ぐの2キロ強の道のり。迷うことなく7時20分、56番泰山寺を打つ。

2.57番榮福寺への道は今治市郊外の古い町並みの小路を右に左に折れ曲がって進むため迷い易い。一歩間違えると古い民家に囲まれた迷路の中で展望も利かず、方角もとれず難儀をする。尋ねる人もいない。町中の迷路からやっと脱出すると今度は田んぼの畦道を行く。畦道に遍路道標が立っている。今は冬枯れの畦道だから道標に気づくのは容易だが稲穂茫々の頃はどうするのだろう。気が付かないかもしれぬ。この畦道こそが遍路古道なのだから夏冬お構いなしに畦道を踏んでゆくことになるか。田んぼは荒れるし、収穫時の農作業への影響など所有者のお百姓さんは平気なのだろうか。

3.複雑な遍路道では地図帳と睨めっこだ。山道と平地では、小生の場合平地で迷う確率が高い。山道はクネクネと曲がり上り下りに難渋するが右折左折などの分岐が少なく、道標も要所要所で確り整備されているので意外に迷わない。(ただし、迷えば市中での夫れとは比較にならぬ危険を孕んでいるが。)問題は平地で、十字路や分岐路が矢鱈とあって、目印になるものがないときだ。今日のような好天下では地図を片手に歩けるので間違いが少ないが、雨天では地図が菅笠の滴で濡れて破れるので、頭陀袋にいれてしまう。時々木の下影や家の軒下で地図を取り出すがその時点では既に迷っている。小生の場合、雨天で道を迷う確率が高い。それにしても57番榮福寺への道はわかりにくかった。7時45分、57番榮福寺打つ。

4.58番仙遊寺への道はさすが仙人の遊ぶ寺だけあって、急坂の登りが続く。人ひとり辛うじて通れる急峻の遍路道に「蝮注意」の立て板あり。この季節を選んだ理由の一つに蝮を避けたかった小生としては、注意喚起標識は全く意に介せずである。さて仙遊寺は山門から本堂まで急な石段が限りなく続き遍路を痛めつける。8時25分仙遊寺打ち終わる。

5.59番国分寺までの6キロ強の道程は急な下り坂で始まる。この五郎兵衛坂と呼ばれる急坂は遍路伝説となって今に言い伝えられている。坂を下り切れば、長閑な田園や集落を縫うようにして平坦な遍路道が続く。途中、軽自動車の老人より同乗お接待の誘いをいただいたが、これはお断りする。その代り路上で20分ほどの遍路談義。要領を得ぬ立ち話であったが、要はこの73歳のご老人は小生を励ましたかったということである。合掌。10時15分、59番国分寺打ち終わる。ここは再び今治市内である。

6.今治市内の桜井という眠ったような生活の匂いがしない村落を通り抜ければ東予市である。国道196号線を行く。右三芳町方面という道路標識に従い196号線と別れ、道を右に折れる。ちょっとした峠を越えた途端、眼前の光景にアッと目を見張る。雪をかぶった石鎚山と連峰群が遥かに聳えている。なるほど、四国最高の霊峰にして修験道霊場だ。見る者を魅了するオーラがある。標高1982メートル。明日はあの山のどのあたりを登るのだろうか。身震い。午後2時15分、石鎚登山基地である丹原町の栄家旅館に着く。中年の女将さんの暖かい挨拶のもてなしを受ける。

 洗濯一切を奥さんがして下さる。小生にやらせない。夕食は東予の海で獲れた鰯の握り寿司をメインに鰈の煮つけ、海老茶わん蒸し、高菜の和え物など海山の幸ずくし。一泊二食5500円。

遍路紀行 28日目 (1997年3月24日) 快晴

行程

越智郡菊間町の月の家旅館~54番延命寺今治市阿方)~55番南光坊(同.別宮町)~今治市内共栄町のホテル青雲閣まで  歩行距離 20キロ (延べ867キロ)

この日の出来事など

1.朝8時半、月の家旅館出発。明日の宿泊先の距離上の調整の為、今日は僅か20キロの歩きで今治市内で宿泊することにした。従って朝の出発も遅くした。初めての事。昨日同様、左に瀬戸内海、右に予讃本線を見ながら196号線を行く。伊予亀岡駅を過ぎて暫く行くと菊間町/大西町の境界の青木峠にかかる。峠とは言えなだらかな丘のようなもの。峠の茶屋でそこのおばあさんから蜜柑のお接待をいただく。般若心経をあげて欲しいと請われたのは最初で最後の体験であったが、国道の路上で人と対面合掌しながらの読経は流石にあがったのか、何度も詰まる。托鉢行脚は言うに易く、行うに難し。読経を聞いていた隣の果物店から青年が飛び出してきて遍路に合掌。オロナミンドリンク2本お接待をいただく。

2.今朝の冷え込みは厳しい。寒い。峠から大西町海岸に下り、海風に震えながら国道を遮二無二歩く。すこしは体が温まる。10時半吉田橋を渡って今治市に入った。左前方に造船所の大型クレーンが林立して見える。ここは四国最大の造船基地である。活気が伝わってくる。また、今治タオルの生産・輸出でもよく知られており、今では今治港は国際貿易港として外航海運会社も競って定期船を寄港させるようになっている。嘗ての職業柄、今治には思い入れが深い。

3.11時15分、54番延命寺打つ。正午、55番南光坊うつ。いずれも町寺。ことに南光坊今治市の中心地にあってJR今治駅今治港、歓楽街に囲まれている。今日は小生亡母の七回目の祥月命日にあたる。54,55番札所では亡母の菩提供養を懇ろに祈念する。

4.午後1時、ホテル青雲閣に着く。朝の出発を1時間も遅らせて調整したがそれでも早すぎる到着だ。周りはバー、クラブ、飲食店が軒を連ねるネオン街であった。けばけばしい彩りの建物に囲まれて何となく場違いの青雲閣は古びたままの4階建ての大きな身体をもてあますがごとく建っていた。韓国、中国にお株を奪われた日本の造船業界は国際競争から脱落する一方にある中で当地の造船会社は今でもよく健闘していると思うが、日本の造船業が世界をリードしていた往時にはこのホテルも随分と賑わっていたのであろう。古いが立派な建築である。一見、城郭のごとき風格がある。今は1階がラジューム公衆浴場、上階がホテル営業だが果たして宿泊者は小生のみのようであった。部屋予約時の打ち合わせ通り、無人の2階フロント受付を通り過ぎて勝手に3階のローズという部屋に入る。長い廊下は照明も無く真っ暗である。部屋のドアーは開いていて、鍵も予約時の電話で説明を受けた場所に置かれていた。全て打ち合わせ通りの手順である。夕方、中年の婦人が部屋を訪う。予約電話を受けた女性だ。声や話しぶりから想像した通りの聡明そうで、どこか愁いを秘めているかの美しい婦人であった。おそらくここのオーナーであろう。素泊まりの確認。洗濯設備がないのでコインラウンドリーに行ってほしい。部屋のバスは使用不能。代わりに1階のラジウム浴場を使ってほしい。今日は定休日なので四つある大浴槽のうち一つを使えるように用意しておくと。明朝の出発は好きな時間でよい。ただしフロントは誰も居ないので見送りは出来ない。これだけの事をてきぱきと説明してから、人手を節約して不自由を掛けることの詫びを言う。素泊まり料金3605円、女主人に前払いする。

5.チェックイン後の時間は有り余るほどあるので、市内見物だ。近所のすし屋で一寸遅い昼食の後、今治港今治城、商店街、今治駅周辺を歩き回る。明日の朝食用にそごうデパート内のアンデルセンでパンを選んでいたら、中年の女性店員がお遍路さんかと声を掛けてきた。遍路装束類はホテルの部屋に置いてきており、一見遍路とわかる物は何も身につけていない。どうして分かったのかと尋ねたら何となくそう感じたという。敢えて言えば、坊主頭であること、手も顔もこの季節に似合わず日焼けで真っ黒なためだとか。この女性、ほかの客をほったらかして小生に質問の嵐だ。熱意に脱帽。歩き遍路は地場の人にとっても憧憬と尊敬の対象なのか。益々精進努力の要あり。

6.日が暮れて、1階の公衆浴場に行く。ラジウム風呂とは楽しみだ。今日は定休日のため正面入り口は閉まっている。教えられた手順で裏口から浴場に入る。高い天井から40ワット位の電球が唯一つポツンと広い脱衣場を照らしている。大浴場の照明スイッチの在り処を探したが徒労に終わる。とにかくこの薄暗い脱衣場の電球が広大な浴場を含む全施設の唯一の照明源である。恐る恐る手探り、足の爪先探りでそろそろと浴場の扉を開けて入る。高いドーム天井で、ローマ風呂もどきだ。プールのような浴槽が四つ。本当にそのうちの一つに湯が沸いているのだろうか。出入り口に一番近い浴槽に足を入れる。熱い!湯加減満点だ。浴槽に身を沈める。しかし広い。手元真っ暗。湯は透明か白濁か。全く分からない。ガラス越しに仄暗い明りがボーっと脱衣場を照らしている。高い天井から湯気の滴が一滴ポツンと落ちると、暗闇の底に静まり返っている浴室全体がポツ~ンと不気味に反響する。小生一人だけ。何となき妖気。あの道後の湯の悦楽をもう一度味わいたい気持ちも吹っ飛んでしまった。早々に風呂を切り上げ、窓越しにネオンの点滅を眺めながら眠りにつく。

遍路紀行 27日目 (1997年3月23日) 快晴

行程

石手寺門前民宿みよ志~53番円明寺松山市和気町)~52番太山寺(同.太山寺)~54番延命寺への途中の越智郡菊間町の月の家旅館まで

歩行距離 36キロ (延べ847キロ)

この日の出来事など

1.朝7時、民宿みよ志出発。女将さんから伊予柑10個お接待していただく。素泊まりであったが、親切で声の大きい陽気な人柄であった。市内は日曜早朝の事とて眠っている。宿泊客の姿もない旅館街や温泉通りなど歓楽街の中心を行く。地図ではこれが遍路道になっている。市街を西進、松山大学前通過。ここはもう郊外か。道はややこしい。大きい町は鬼門だ。また迷う。消防署に行き当たる。さすがに署員の人達は朝が早い。親切丁寧に教えてもらう。道はかなり外れていた。午前8時40分、53番円明寺打つ。門前で地元婦人会らしき女性たちが小生を待ち構えていて、アンパン1袋、缶コーヒー2個、健康ドリンク2本、バナナのお接待にあずかる。バス遍路さん達にも接待するのだろうか。いくら用意しても足らないのでは‐‐‐など、つまらぬ考えは止めるべし。それにしても民宿の女将さんの伊予柑に今いただいたお接待。豊かな気分だが、重くて嵩が張って嬉しい悲鳴也。

2.午前9時20分、52番太山寺打つ。本堂は国宝。町寺には珍しく山門より本堂まで350メートル程の急坂を上らねばならない。

3.快晴。暑くなってきた。歩きながら伊予柑を丸かじり。甘露。心の中で民宿の女将さんに礼を言う。10時55分、とうとう眼前に瀬戸内海が現れた。阿波鳴門の渦潮、室戸の怒涛逆巻く太平洋、炎熱の土佐湾、穏やかな宇和の海を経てついに瀬戸の海との対面だ。ここは松山市堀江町。喫茶カフェトレインという大きな食堂を通過した途端に物の陰から海が我が目に飛び込んできた。遍路道は堀江町より国道196号線に合流している。

4.瀬戸内は天気晴朗。穏やかな海岸線を左手に、JR予讃線を右手に、196号線はその二つに挟まれて進む。人影全く無し。人と出会いすれ違うのは都市部だけの事。予讃線の特急列車が走りすぎて行く。アレッ?遍路が歩いているぞ、というような仕草で小生を指さしているらしき乗客が見えた。特急列車だから遍路を見慣れた地元の乗客というより遠方からの旅行者か。そうならば珍しい風景であろう。ああ、電車に乗りたい。

5.11時過ぎには遍路が歩く196号線は松山市と別れて北条市へ入ってゆく。国道は瀬戸内に沿った細長いこの町を貫通して隣町の菊間町へと目指して行く。人の気配なく、活気が感じられない。日曜の所為かしらん。讃岐に近い土地柄か国道沿いにうどん店は多い。人の気配なくとも、また車の通行も少ないにも拘らず、いずれの店も結構繁盛しているようだ。その証拠に駐車場はどの店も車で満杯だ。不思議である。国道上の走行車は少ないのに駐車場は車で溢れている。丁度昼時。小生も、とある店の暖簾をくぐる。客でいっぱいだ。昼なお眠るような町中の佇まいと、うどん店内の活況。天ざる800円。値段は土佐あたりと比べれば高いと思う。しかし典型的讃岐うどんで、容易にかみ切れぬこしの強さは比類がない。

6.菊間町への 途中、峠越えあり。国道は海岸線に沿って大きくカーブして峠を迂回しているが、遍路道は真正面から峠に挑んで距離を稼ぐ。峠を越えれば196号線に再び合流すべく急な下りだ。下り道の周囲はすべて蜜柑畑である。誰もいない。手を伸ばすどころか蜜柑が顔に触れてくる。触れなば折らん。これは相当な誘惑である。採ってほしいとばかり。しかし、今朝民宿の女将さんからお接待でいただいた伊予柑がリュックの中に沢山残っている。これが救いになった。黙って採れば遍路十善戒の不偸盗の禁を破ってしまう。

 さて、菊間町に入る。瓦造りで全国的に知られる町である。国道に沿って延々と瓦製造工場が続いている。鬼瓦の展示が楽しい。大小様々な商品見本を夫々の工場が競って国道に面して陳列している。鬼の表情にもさまざまアクセントをつけ、製作者の遊び心が窺いしれて面白い。工場は個人経営の傾向が強いのか有限会社名が多い。通りすがりのおばあさんに呼び止められてあんころ餅2個のお接待をいただく。餡子の塩気が強すぎて申し訳無きことながら、小生の口には合わなかった。

 午後3時前、旅館月の家に着く。古びているが、よく手入れの行き届いた清潔な旅館であった事と、器ものは冷えていたが刺身だけは流石に美味であった事以外は何も覚えていない。

 

遍路紀行 26日目 (1997年3月22日) 快晴、しかし寒い

行程

久万町のガーデンタイム~46番浄瑠璃寺松山市浄瑠璃町)~47番八坂寺(同)~48番西林寺(同.町高井)~49番浄土寺(同.鷹の子町)~50番繁多寺(同.畑寺町)~51番石手寺(同.石手)~石手寺門前の民宿みよ志まで(松山市石手)

歩行距離 28キロ  (延べ811キロ)

この日の出来事など

1.今日は46番から51番まで。全て松山市内の町寺のため札所の数は多いが順調に納経できるだろう。友人の山男T君より小生の携帯電話に連絡あり、昨日の豪雨のため登山中の東赤石山から下山できず、今日の松山でのランデブーはご破算となった。(3月15日の遍路紀行参照)。道後の湯にでも一緒にと楽しみにしていたのに残念。

2.7時前ガーデンタイム出発。チェックアウト少し早すぎたか、フロントの婦人まだ出勤していない。なにせ、宿泊者は小生のみだから仕方がない。料金精算のためロビーで待つ。それにしても四国の人はのんびりしていると感心する。遍路は早立ち位の事は土地の人であれば先刻承知であろうから、小生だったら前夜のうちに清算請求しているだろう。食い逃げ、ただ逃げなど考えたことも無い風土。ホテルを出れば国道33号線が走っている。一路この道を松山市へ。雨は止んだが、まだ晴れていない。四国を南北に分ける脊梁山脈を越えれば松山である。峠の名前は三坂峠。国道は三坂峠を目指し殆ど一直線の長い登坂路である。8時頃より青空が急速に広がってきたが、実に寒い。あの土佐の暑さが嘘のよう。カメラを操作しようとするが手がかじかんで思うようにならぬ。

3.峠で33号線と別れ、道なき道のごとき旧遍路道に分け入る。あまりの急な下りの悪路に加え昨日の雨による泥濘についに足を滑らす。眼前の急斜面の岩に頭から突っ込む。菅笠はとび、金剛杖は危うく谷に落ちるところ。杖の鈴は谷に落ちてしまった。否、小生自身があぶなかった。ズボンもシャツも泥まみれであったが、五体安全であったのは偶然か。そうだろうか。金剛杖を確り握っていたおかげだと思う。37日間の遍路行で危機一髪の体験がこれ一回で済んだのはひとえにお大師さんのご加護也。

4.既にこの辺りは松山市である。と言っても、現在地は松山市窪野町という郊外の更に外れの遍路以外は滅多に人の通らぬ深山である。遍路道は下るにつれ、車一台通行できる林道に変わってくる。後に知ったことだが、時効寸前に逮捕された松山のホステス殺人事件の犯人が被害者をうずめた場所が三坂峠であるという。車で被害者を運んだであろうから人目につきやすい33号線を敬遠すればこの林道しか無かろう。

5.閑話休題。9時50分、46番浄瑠璃寺打つ。納経所では多分寺の梵妻と思はれる中年の女性からご朱印いただきかたがた激励を受ける。納経料の300円は歩き遍路へのお接待として受け取って下さらない。この寺では小生の女性運が良かったと見えて、東京小金井市からのバス団体遍路の女性たちから一人歩き遍路ということで賞賛と激励の集中砲火を浴びたばかりか、お大師さんの功徳にあずからせてと小生の杖と身体を撫でまわす。

 10時45分47番八坂寺打つ。11時10分には一級河川重信川に架かる久谷大橋を渡り松山市街地に入る。11時20分48番西林寺打つ。

6.12時10分、49番浄土寺を打つ。納経所でのご朱印は高校生のような少年がしてくれる。青年というには若いが、筆の運びと言い態度も堂々たるもので心底感心した。この後、50番への道に迷う。賑やかな市街は右折左折、交差点やたらに多く、道標も町並みの雑多な看板,広告物に溶け込んで見つけがたく、簡単に迷ってしまう。行き交う人は多いから、これと思う人に尋ねても寺の名前すら知らぬ人が居る。もと来た道への逆戻りは精神的につらい。12時半行きずりの食堂で中華焼飯を食す。450円。サラリーマンでいっぱい。

 午後1時20分、50番繁多寺うつ。小高い丘の上にあるこの寺の境内からは早春の陽光を浴びる松山市の全貌が一望できた。四国有数の大都会である。

7.51番に向けて丘を下り始める。この辺りは住宅街であるが、墓地があちらこちらに点在している。四国は昔の行倒れ遍路を葬った路傍の風化した墓石に始まり、村道、県道、国道、市街地の生活道路脇にも墓地が多い。四国の人の死者に抱く思いは 四国以外の他国に生まれ育った人々のそれに比し、何か特異なものがあるのだろうか。1200年にわたり強い大師信仰に育まれてきた四国の人たちだからこその宗教的感情によるものだろうか。人への優しさが死者への親和に広がるか。死に装束の白衣の遍路を優しく迎える四国の人々に感謝と敬意を!

8.午後2時10分,51番石手寺打つ。この寺は数ある松山観光の一つであるので観光客が多い。門前から山門までの50メートルほどの参道は仲見世風の土産物店が並び、今日が土曜日ということもあってか観光参拝客で大混雑である。石手やきもちが名物のようだ。人の波に誘われて、しばらく境内で遊ぶ。

9.午後3時、門前の民宿みよ志に上がる。荷物を預け、宿の下駄を借りて、歩いて10分の道後温泉へ急ぐ。2階の神の湯入湯のため登楼。畳敷き休憩所に案内される。男女区別無し。手摺越しに下の通りの人波を眺める。.上着、ズボンは入湯客一人づつの専用乱れ箱に置いておく。貴重品は帳場のお姉さんに預け、下着の上に浴衣を着て階下の浴場脱衣所へ下りてゆく。湯はミルク色に白濁、少し熱めだ。石造りの浴槽は広く、さすがに歴史の年輪を感じさせずにはおかぬ風格がある。遍路の事はすっかり忘れ、暫し浮世の悦楽に沈潜する。お湯も浴場の造りもまことに結構であったが、2階休憩所の風情が時代離れしていて情緒豊かだ。坊っちゃんが遊んだ明治の香りか。国籍、性別関係なく座布団が整然と敷かれている畳敷き大広間でくつろぐ。浴場から上がってきたら、何の屈託もなく浴衣を脱いで、乱れ箱の上着と着替える。団扇も用意されている。天目茶碗でお姉さんがお茶を運んでくる。いまどき天目茶碗とは。まるで殿の気分だ。これで入湯料680円。さて今夜の民宿は素泊まり5500円。愉楽の後は道後温泉駅前アーケード街の食堂で一人寂しい夕食となった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

遍路紀行 25日目 (1997年3月21日) 激しい雨,降り続く

行程 

久万町のガーデンタイム~44番大宝寺久万町)~45番岩屋寺上浮穴郡美川村)~再びガーデンタイムまで   歩行距離 22キロ (延べ783キロ)

この日の出来事など

1.今日は44,45番打ち終えた後、再び久万町のガーデンタイムまで打ち戻る行程となる。一日の歩行距離22キロは後で判ったことだが36日間の遍路行のなかで一番短い歩行距離であり、本来ならばルンルンの歩きで終わる一日が降りやまぬ豪雨によって悪戦苦闘する一日となった。朝8時ホテル出発。不要な携行品は部屋に残し、リュックを出来るだけ軽くする。44番までは2キロ弱。目と鼻の先だ。雨が激しい。大宝寺の寺域に入る。鬱蒼とした杉木立が続き豪雨のため天地晦冥し薄暮同然である。8時30分、44番打ち終わる。これで札所の半分をを無事打ち終えさせていただいた。なんとなき達成感。

 ところで、杉と言えば遍路旅のいつの頃からか鼻水、くしゃみ、目のかゆみという花粉症の症状を自覚するようになった。これまでは小生花粉症完全無罪。早春これだけ山中を這いずり回ってスギ花粉を浴びていれば無罪でいるのがおかしい。以来、春2~3月はうっとうしい季節である。お大師さんから頂いた四国土産である。

2.八十八ヶ所中の難所は12,20,21,45,60,66番札所への遍路道が有名であるが、わけても45番が最難関というのが定説である。この激しい雨中の険しい登山行を思うと一抹の不安がよぎる。大宝寺での納経を終え、さて45番岩屋寺ルートへの挑戦だ。県道を行かず、大宝寺裏手から山中に足を踏み入れる。旧遍路古道である。。悪路に泥濘。滑って転ばぬのが不思議なり。滝のごとき奔流が道を塞ぎ、足元は言うに及ばず体をも奔流が叩く。登山靴だけは高価なイタリア製を履いていたので、靴の内側にまで雨水がしみ込んだり流れ込む被害は避けられた。靴だけは、かくのごとき長距離歩行にあっては投資を惜しんではならない。水が入れば足の皮膚がふやけて皮が剝ける。これでは商売にならない。さて、9時頃古道の山を辛くも抜け出て立派な自動車道の県道に合流し河合という集落を通過する。住吉橋という橋を渡る。短い橋であった。雨の中、通りすがりのおばあさんから「おへんろさん、橋の上では杖を突いたらあかんで」と言葉のお接待をいただく。大洲市十夜ヶ橋の故事の通り橋上での杖突歩行はご法度也。ついうっかりしました。南無大師遍照金剛。

3.10時県道を逸れ、八丁坂遍路登山口への脇道に逸れる。勿論、県道をこのまま進んでも岩屋寺に行けるが、八丁坂は遍路転がしの古道である。歩き遍路たる者この道を行かぬ法は無い。歩き遍路の名が泣くか。八丁坂は標高785メートル。45番岩屋寺石槌山系の岩山で標高650メートル。登り下りの繰り返しが続く。これが心理的につらい。苦労して登った挙句、今度は下れという。下れば再び登りが待っている。これが勿体ない。いっそのこと、山から山に吊り橋でもーーーー。また、お大師さんに叱られる。意外に早く午前10時20分峠に着く。これより岩屋寺まで1.9キロという道標が立っていた。しかしここからの1.9キロは豪雨とぬかるみの悪路との苦闘であった。途中視界が開け、見れば雨雲は頭上にあらず眼下に広がっていた。10時50分雨煙の中から岩屋寺の山門が突然現れた。

4.11時過ぎ45番岩屋寺打ち終わる。カルスト地形の景観に息をのむ。奇岩怪石の大山塊群。本堂は山塊の絶壁にしがみつく様に建っている。休憩所でお接待の牡丹餅をいただく。雨で冷え切った体を熱い渋茶と赤々と燃える石油ストーブが蘇生させてくれる。それに沢庵大根がいかにも渋い田舎漬けで、都会住まいではめったに口に入らぬ絶品の味。さて濡れた雨具や衣類もすっかり乾いた。44番~45番の往還は上段でも触れた通り全行程にわたり県道が整備されている。打戻のルートは遍路古道の八丁坂は遠慮させていただき、距離は長いが楽な県道自動車道を使わせてもらう。マイカーや団体バスで45番に来る遍路達は八丁坂などの歴史的古道の存在も知らずに、県道ルートで運ばれてきて岩屋寺門前町で下車、これより先は自分の足で本堂まで行かねばならない。下車したら延々と山門まで伸びる石段が目に飛び込んできてこれに圧倒される。山門まで登り20分は要するであろう難関である。老若男女,貴賤を問わずここは自分の足で登らねばならない。確か,駕籠は無いはずだ。圧するように高く立ちはだかる山塊を前に諦める遍路も多いとか。門前町の茶屋の人の話である。小生の場合はこの逆となる。往路の八丁坂コースは門前町と山門の高低差をのみこんで直接山門脇に達するので打ち終わった後はこの石段坂道を下って門前町に降りたつ。

5.復路、県道を下る途中で国民宿舎古岩屋荘を見つける。昼食にかやくうどん450円。ここで、軽自動車を住居代わりに鍋釜まで積み込んで、八十八ヶ所を巡り続けているという70代ぐらいの男性遍路と出会う。坊主頭の半僧,半俗か。国民宿舎の従業員とも顔馴染みらしく乱暴な言葉遣いだ。真正遍路か、俗人奇人か、つかみどころ無し。カリスマ遍路かと思えば、嫌味な俗臭をまき散らす。ほどほどのお相手で別れる。

6.雨は一向に降りやむ兆し無し。疲労は足の運びと直結している。45番への今朝の往路は44番大宝寺裏から遍路古道の山道を辿って距離を稼いだが、疲れ切った体にはあの悪路泥濘の古道を再び歩く勇気も無く、遠回りになるが整備された県道を歩き続ける。往路には当然通らなかったトンネルがあった。峠御堂トンネル650メートルであった。往路はこの峠越えで苦しんだが、トンネルという文明の利器は有り難い。歩道がないので危険ではあったが、豪雨関係なく6分で通過。往路の苦闘がまるで嘘のようだ。意外に早く午後2時ホテル帰着。雨は依然激しい。軍靴のようなウォーキングシューズに雨によるダメージ全く無し。Trekking Shoes”TARAS BOULBA"、made in Italy。足は守られたが、雨によるわが身への打撃は激甚。身体がとにかく重い。今日で25日目の遍路行であるが、距離は25日中最短の22キロ、疲労は25日中最悪のコンディションであった。明日は晴れとか。お大師さん、お頼みします。