遍路紀行 17日目 (1997年3月13日) 激しい雨降り続く

行程 

ペンション四万十川土佐清水市以布利の民宿旅路まで

歩行距離 31キロ (延べ523キロ)

この日の出来事など

1.朝7時半ペンション出発。38番金剛福寺まで一日半の行程。激しい雨。国道56号線の大型車の流れは絶えることが無い。飛沫を全身に浴びながら黙々と行く。ひたすらみじめさに耐えて歩く。8時前四万十川に架かる渡川大橋₍トセンオオハシ)を渡る。雨に煙り見通し悪い。橋を渡ると56号線と別れ鋭角に左折して堤防上を走る国道321号線に合流する。今夜の宿泊地以布利までこの国道の世話になる。道に迷う心配皆無。堤防上の国道を挟んで左に四万十川本流が、右に中筋川が流れている。中筋川は河口近くで四万十に飲み込まれるように合流するが、この辺りでは四万十川が大きすぎて取りとめなく感じるに対して、中筋川はこじんまりとして岸辺は緑多く風情満点だ。四万十川はどちらかと聞かれたら、頭に描いているイメージだけで答える限り迷うことなく中筋川を指すだろう。

2.午前9時半、津蔵淵合流点を通過。足摺岬まで36.3キロの表示あり。ここで我が歩む国道321号線は四万十川に別れを告げ、大きく右に折れて西南に方角をとる。山中に入ってゆく。峠越えだ。途中、八十八ヶ所先達公認証を持つ60代ぐらいの男性が大雨の中にも拘わらず車を止めて、なぜか110円の賽銭お接待をいただく。暫し雨の中、先達の遍路談を聞かせていただく。

3.10時、伊豆田トンネル入り口に達する。1620メートルと長いこのトンネルは幅も広く、歩道は段差があって安全歩行。おまけに外は大雨でも、ここは雨知らずの快適空間だ。トンネルにもこんな利点があった。トンネル中間地点で中村市から足摺岬のある土佐清水市に入る。

4.足摺岬土佐清水市の最南端に当たり、太平洋上大きく南に突き出た半島のような地形の先端にある。この”半島”の基部に当たるところが土佐清水市の下の加江という漁村である。ここは交通の要衝で、東へ向かえば小生が今まで歩いてきた道程を逆行して室戸に向かい、南へ海道を行けば足摺岬から土佐清水市の中心部へ、北へ山越えの道を行けば半島の反対側のもう一方の基部に当たる宿毛市に達する。さて、下の加江には高知、愛媛両県境の山々から流れ落ちる水を集めて満々たる下の加江川が土佐湾に注いでいる。国道321号線はしばらくこの川を右に見て下ってゆく。あたかも隣り合うのを拒むようにポツンポツンと町並みが心細げに続く。川辺に沿って喫茶HIGEハウスという食堂が煙る雨の煙幕の中から現れた。この店も大河を背にポツンとただ一軒、川に飲み込まれるように立っている。雨はますます激しい。ずぶ濡れの雨具の滴を気にしながら扉を開ける。ストーブは赤々と燃えているが誰もいない。無人の店内で菅笠や雨具の手入れをしながら主人の現れるのを待つ。昨日の料理屋の海坊主と同じだ。待つこと20分以上。名前通りのヒゲの主人であった。寿司蕎麦定食600円。再び321号線を本日の最終目的地である以布利の漁村目指して行く。地形変化の激しい海岸線をゆく国道は上り下りの繰り返しや、右左に急カーブする危険な生活道路兼用の観光道路である。振り返ったら今歩いてきた下の加江の漁村が遥か目の下に見えた。雨は止んだ。途中、これまたポツンと水産加工店あり。うるめ生干しと赤目鯛の干物を家族に送る。3000円。クール宅急代1240円、このほうが割高なり。

5.午後2時10分、民宿旅路に着く。雨中30キロ強の歩行、ようやく本日はこれで手仕舞い。眼光鋭く、骨太の男性が留守番中。この家の主である。聞けば70歳とか、とてもそのようには見えない。言葉を飾らぬ物言いなので、初対面の印象はパッとしなかったが、悪げのない人柄であることはすぐわかる。間もなく戻ってきた65歳の奥さんともども本当に親切な素晴らしいご夫婦であった。昔は漁師の網元で、二男、三女皆独立して、今は二人で民宿を営んでいる。夕方までの2時間は石油ストーブを囲んで世間話に時間の過ぎるのを忘れるほどの楽しく愉快な一刻であった。洗濯一切奥さんがして下さる。

 夕食は魚尽くし。鰹に始まり、平目の刺身は絶品であった。いわし寿司。これがまた凄いほどの美味。食べすぎ。他に宿泊者なし。一泊二食6000円。  

6.夜、テレビは無い。この家は断崖絶壁の上に建っている。部屋の窓から外を覗いたら,20メートルほど直下に岩に砕ける白波が見えた。波音は白砂青松の寄せては返す優雅なものではない。太平洋の荒波が岩に砕け散る轟音である。遠くに目を転じると下の加江方面の漁村の灯がチラチラと瞬いて見える。寂しい眺めである。雨は今は止んだようだ。8時就寝。ここの主人夫婦に幸あれかし。

 

 

遍路紀行 16日目 (1997年3月12日)曇り

行程

佐賀温泉旅館~幡多郡大方町経由四万十川で有名な中村市のペンション四万十川まで

歩行距離 34キロ (延べ492キロ)

この日の出来事など 

1.38番金剛福寺のある足摺岬まではここより80キロの彼方。これより2日半を要す。午前8時出発。朝から雲が厚いが、何とか持ちこたえられるか。佐賀温泉は佐賀町の一方の外れにあるが、ここより町役場や漁港を通って隣町の大方町まで16キロもある海岸線の長大な町である。8時55分土佐くろしお鉄道伊与喜駅前通過。このどこか旅心を誘う名前の鉄道は昨日通った窪川から四万十川中村市を経由して高知県最西端の宿毛市までを結んでいるが、これでわかるように今日の中村市までの国道56号線の遍路歩きの道ずれは土佐くろしお鉄道である。これに乗れば中村市までアッという間に着く。祈るらくは、遍路を誘惑しないで欲しい。

2.佐賀町商店街や漁港前を通過して午前10時町はずれにある佐賀町営”土佐西南大規模公園”で小休止。運が良ければここから鯨ウウォッチングができるそうだ。そのためか海岸遊歩道が長い。曇天ではあるが海の彼方に目を凝らして歩く。

 白浜海岸、井の岬などの景勝地や井の岬トンネル、伊田トンネルを次々通過してようやく大方町に入る。ここですれ違ったおばあさんから煎餅,大福餅のお接待を受ける。相当嵩張り、また重いのでリュックにいれるが、重みで肩が痛い。愚痴るなかれ、罰が当たる。土佐くろしお鉄道は相変わらず小生につかず離れずである。東大方駅を過ぎて直ぐの宇呂という海岸で、国道に面したホテルレストラン”海坊主”に出会う。丁度12時。遍路には不似合いな高級な構えだが、周りをうかがっても食堂はおろか人家もない海岸線が続くのみだ。お世話になることにした。案内を請うも広い建物の為か応答無し。客もいない様子だ。生き胆を抜く都会からの旅人にとっては、昔はみな斯くあったかと思わせるような羨ましさと懐かしさを感じる。大声で頼もう頼もうと繰り返す。ようやく奥から仲居さんが走り出てきたが、物騒ではないかとの問いにそんなこと考えたことも無いとの答え。このような思考回路を育ててくれる環境が羨ましい。古き良き時代が偲ばれて懐かしい。海岸を正面に臨む清潔で広々とした個室に通され、仲居さんの世話で一人占めの豪華な昼食也。海の幸定食1500円。鰹のたたきをメインにえび、ほたて、あわび、いわごけ、とこぶしの刺身と煮物。ほかに、たこ、きゅうり、さくらのりの和え物など。

3.午後1時前、海坊主出発。56号線を行く足取りも軽い。大方町域のくろしお鉄道上川口駅前で自転車に乗った60代女性から500円賽銭お接待をいただく。お互い合掌。入野分岐という道標あり。ここより56号線を離れ遍路道は海岸遊歩道へ。この辺り、”入野の松並木”と呼ばれる景勝地である。海浜は海亀の産卵地としても知られる。再び国道に合流、午後2時10分西大方駅前通過.一輌だけのローカル電車が旅情を振りまいて追い越していった。中村市まではあと僅かだ。

4.ついに56号線の道路標識に”足摺岬”の表示が出た。四万十川まで7キロ、足摺岬まで56キロと。逢坂トンネルをぬけたら四万十川中村市であった。トンネル入り口には清流にトンボの壁画。水清き四万十川。歩道も幅広く快適なトンネル歩行。

5.午後3時過ぎ中村駅近くのペンション四万十川に着く。テレビ有料2時間100円、エアコンも有料。商魂たくましいか。いくら四国とはいえ、町中には町中の流儀があるからやむを得ないか。しかしお茶の用意もない。アルバイト風の女の子が二回目の催促で漸くもってくる。50代と思しき女将さんのガラガラ声が2階の小生の部屋まで聞こえる。しかし笑顔が大変可愛い人だ。とはいえ、何かしっくりと落ち着かぬ家だ。周りに民宿や旅館が山ほどあるのに一寸ついていなかったか。後で判ったことだが、ここは遍路宿というより仕事でこの町に長期滞在する若者たちが下宿代わりに多く利用するらしく、夕方10人を超す青年たちがドット戻ってきた。一人やっとの狭い風呂も洗濯機も順番待ちの行列だ。大学体育部の合宿寮のようだ。夕食も年配遍路向きでなく、メインは草鞋のようなビーフステーキであった。遍路16日目にして初めての大スタミナ肉料理。しかし、これが美味であった。ペロリと平らげる破戒遍路。夜は襖越しの話し声や廊下の足音など、案の定落ち着かぬ雨本降りの一夜となった。明日は激しい雨だとか。雨の四万十川の詩情や如何。部屋は国道に面しているので、大型車の水を切る飛沫の音が絶えることが無い。ネオンの点滅。”四万十の中村市”のイメージ”が狂ってしまった。一泊二食6000円。

 

遍路紀行 15日目 (1997年3月11日) 晴れ

行程

久礼の大谷旅館~37番岩本寺高岡郡窪川町)~幡多郡佐賀町拳の川の佐賀温泉旅館まで  歩行距離 30キロ (延べ458キロ)

この日の出来事など 

1.昨夜の豪雨、目覚めれば今朝は嘘のような快晴である。南無大師遍照金剛。7時勇躍大谷旅館出発。昨日と変わり今朝は老奥さんの見送りを受ける。その際100円の賽銭お接待をいただく。この旅館の心の籠った料理と接遇ぶりはこれまでお世話になった旅館の中でも3月8日投宿の高知やさんと並び双璧である。静まり返る朝早い漁師町の古びた町並みを抜ければ、早くも国道56号線が手ぐすね引いて待っていた。56号線は標高ゼロに近い久礼の港町を抜ければ、海岸線から山の高みへ一直線の急登を始める。山中の急坂を登る大型トラックの凄まじいまでの流れ。片側一車線、車道のみ歩道なし。静から動への一瞬の間の転換だ。 排ガスの煙幕の中を全身汗みどろだ。昨夜の豪雨で湿度が非常に高い。側溝を歩道代わりに,崖に身を擦り付けるようにして歩く。国道とは言えヘアピンカーブの連続だ。運転手が小生を視認し易いようにカーブの外側の側溝に体を移したいのだが、横断が怖い。カーブで見通しがきかないから、数秒も要しない横断であっても急カーブの崖の陰から車が襲ってくる。警笛。トラック運転手の眼。乞食遍路を睨んでいるのか。とにかく難儀な歩きであった。とかく格闘するうちに国道は山を登り切り、山の中腹を縫うように走る平坦な道に変わっている。谷越しの向こう側に小生が辿る国道が見える。

2.午前8時頃から9時にかけて久礼第1,2,3,4トンネル通過。いずれも200メートル位で短いが、大型車の通行依然激しいため、油断は禁物だ。第4トンネルを抜けてしばらく直登すると七子峠だった。9時過ぎ。汗だくの2時間の修行は終わる。土佐は修行の道場。峠からは、久礼の町並み、久礼の内浦(入り江)や、たった今修行してきた56号線が眼下に見える。七子峠は中土佐町と目指す37番岩本寺のある窪川町の分岐点である。一番高所の見晴らしよき場所に”霧の峠七子茶屋”なる売店食堂あり。霧で有名な霧の峠は、今朝は素晴らしい見晴らしの明るい峠であった。56号線はここから長い下り坂となって窪川町へ向かう。

3.午前11時過ぎ、窪川町仁井田という56号線沿いの静かな町の外れで”ナポレオン”という名の鄙には洒落た店構えのケーキ店に出会う。ケーキとは無縁の遍路ではあるが、恥ずかしながら思わず駆け込みシュークリームとチーズケーキを注文する。店の若奥さんが奥より椅子を持ち出してきて座って下さいと勧めてくれる。喫茶店ではないのでコーヒーの代わりですと日本茶のお給仕。ケーキ代450円。安くて、おいしくて大変幸せそうに見えたか小生の事をいろいろ尋ねてくれる。横浜からの遍路と知って彼女も夫と埼玉県の狭山市に住んでいた事、故郷の当地に戻ってこの店を開いたなど暫く世間話をする。礼を述べて再び国道に戻る小生を態々国道にまで出て見送ってくれる。国道に面し、周りに何もないから注意して通れば探し当てられる店である。いつの日にか再見?

4.影野、仁井田を過ぎれば土讃線が国道の右や左に並行して走りだす。12時、呼坂トンネル横のうどん店でうどん定食400円を食す。客はトラックの運転手ばかりで店員や他の客とも皆顔なじみの様子だ。12時25分、37番岩本寺を打つ。広い境内では近所の主婦らしい女性たちが世間話に興じている。格好の社交場か。寺の裏手を土讃線の列車が轟音をあげて通過していった。。そういえば窪川駅は近くにあった。

5.今夜の宿泊先の佐賀町を目指し再び国道56号線を進む。またまた長い登坂道路だ。いささかうんざりである。横をビュンビュン車が走る。道幅が広いので怖くない。窪川町峰の上というところを通過。また峠の見晴らしポイントである。食堂やレストハウスが点在しているが、いずれも人の居る気配なく、空き家の様子。これより長い下り。間もなく佐賀町域に入る。全くの山中だ。150メートル程度の片坂第1,2トンネルを抜けると国道は更に急坂となって下ってゆく。山はいよいよ深まっていく。ここは山国?たしか鯨ウオッチングで有名な海の町のはずだが。海は一体どこに?ようやく平地に下りても56号線は今度は田園の中を悠々と走る。岩本寺より今夜の宿泊先までは10キロ強。南国の強い日差しを浴びて歩くのは、特に午後の疲れた体には厳しい。炎天の田んぼの中の国道上でやっと人に出会えた。自転車に乗った郵便配達の男性だ。堪らず佐賀温泉旅館までの道のりを聞く。なんと、あと1キロ、指呼の間だ。今日は暑さの上に湿気が高いため疲れがひどい。気息奄々。旅館らしき建物が前方田んぼの中にみえてきた。

6.午後3時過ぎ佐賀温泉着。ここは佐賀町郊外。周りは田畑。56号線に面した土産物店兼営の食堂レストハウスだが、設備も新しく清潔で洒落た和風旅館であったのは意外。一泊二食7000円。50代ぐらいの男性支配人が素朴で親切なのも嬉しい。春の小川の童謡を思わせるきれいな小川が旅館の裏手を流れている。ここに洗濯場があり洗濯機も置いてある。明るい春光の下,洗濯だ。若い女中さん達がニコニコ笑顔を見せながら声をかけてくれる。小川にはめだかも泳いでいるそうな。風呂は天然温泉の大浴場だ。小生の為に5時のオープンを4時に早めてくれる。勿論、小生一人だけの大浴場。食事はこれも大食堂でこれまた小生一人きり。なんだか申し訳なし。寝る前8時、再度入浴。苦あれば楽あり。

 

 

 

 

 

遍路紀行 14日目 (1997年3月10日) 曇り

行程

国民宿舎土佐(土佐市宇佐町竜)~須崎市を経由して~高岡郡中土佐町久礼の大谷旅館まで  歩行距離 36キロ (延べ428キロ)

この日の出来事など

1.次の37番岩本寺までは56キロの距離あり。二日がかりだ。今日は中土佐町までの36キロを唯ひたすらに歩き続ける。7時50分国民宿舎出発。横浪三里黒潮スカイラインを行く。国民宿舎の前をこの有料観光ドライブウエーが走っている。馬の背のような高所の尾根を走る道路で、断崖絶壁状の小さな半島や山を割るように入り組んだ入り江などの起伏に富む絶景を眼下に眺めながら歩く。車だったらどんなに快適なドライブであろうことか。歩きはそうはいかない。急勾配の上り、下りが連続する約15キロの苦しい観光道路である。行合う人は誰もいない。人家が全く無いのだから生活道路ではないのだろう。通り過ぎた車は20台ぐらいだったか。聞こえる音は三つ。風の音、鶯の鳴き音、それに金剛杖の鈴の音。鳶の鳴き声は聞こえず。また、波の音は海面が遥か下にあるのでここまでは届かない。途中,横浪県立自然公園あり。食堂も展望台も今日はクローズ。武市半平太銅像は終日太平洋を眺めながら何を思うか。高校野球で馴染みの明徳義塾がこの孤島のような人里無縁の地にあった。周りの静かな雰囲気とは不似合いな看板が立っていた。おそらく全寮制であろう。

2.10時半中浦バス停国道56号分岐につく。漸く下界である。56号線はこれからトンネルが多くなる。中浦バス停は入り江である浦の内湾の行きどまり最奥部にある。これが太平洋に繋がる入り江だとは到底信じがたい静かな”山の湖畔”に停留所がポツンとたっている。ここは須崎市の外れであろうが、市街中心部までの6キロは山中をゆくこの国道56号線が我が相棒であろう。265メートルの鳥坂トンネルは10時45分から47分までの2分で通過。危険なトンネルの長居は無用。急ぐに越したことはない。12時頃桜川を渡り、土崎合流点に到る。ここで国道56号線本線に合流する。

3.国道の両側には須崎市役所、警察署、スーパー、郵便局などの官署、商店、ビジネスビルが並んでいる。想像していたより賑やかな佇まいだ。昼食の食堂も選り取り見取りだ。寿苑という食堂に入る。ここの主人らしき老奥さんが小生の姿を見るや、「オシコクさんが来てくれはった!」と大歓迎を受ける。オシコクさんの徳に与りたいと金剛杖を撫でる、撫でること。鰹定食700円。東京辺りの鰹定食と言えば、刺身一品とみそ汁程度の献立であろうが、ここは違う。皿数5皿、カツオを使った料理である。食べきれない。お詫びして残す。去りしなに、大きなビニール袋にポンカンをドサッと入れたお接待をいただく。外に出てズシリとあまりにも重いので中を覗いたら10個はくだらない数え切れぬポンカンと半熟卵。出来るだけ軽くするため、腹一杯の身ながら歩きながらいただくが、全然軽くならぬ。片手に金剛杖、もう一方の左手に篤き人の情けのビニール袋を提げて頑張りだ。

4.56号本線をどんどん急ぐ。新荘川を渡ると、須崎市街を離れ再び山中に入っていく。午後1時40分~45分、420メートルの角谷トンネル通過。ここから下りになる。楽だ。短い久保宇津トンネル,安和トンネルを通過して、午後2時15分危険なことでガイドブックでも最も悪名高い焼坂トンネル入り口に達する。966メートル。確かに歩道なく怖い。そもそもこの辺りは人口小さいために外出者も比例的に少なくなる。従ってトンネルを含め道路を歩く人も少ないからトンネルに歩道を設ける必要が無いのだろう。歩道を作ればトンネルの幅員も増え掘削工事コストも増えよう。四国のトンネルは歩道ほとんどない。しかし歩き遍路は困る。トンネル側壁下の側溝のコンクリート製の蓋が辛うじて歩道の態をなしているだけだ。2車線トンネルの右側を歩く。右肩をトンネルの壁に擦り付けるようにして懐中電灯をグルグル前方に向けて振り回しながら歩く。これで小生の左肩脇を疾駆する対向車が気付くはずだ。思ったほど危険な思いなく、10分で通過。トンネル内歩行者は小生のみ。排気ガス充満し、手拭で口と鼻を抑え続ける。先ほどいただいたポンカンの入ったビニール袋、金剛杖、懐中電灯に手拭を両手で持ち替え持ち替え、三十六計逃ぐるに如かずと小生もトンネル内を疾駆する。

5.焼坂トンネル内の中間点で須崎市から高岡郡中土佐町に入る。外界に出たらほぼ一直線の長い下りだ。土讃線が右側を走っている。午後3時10分中土佐町久礼の大谷旅館に着く。中年の奥さんの出迎えを受ける。夕食、朝食ともに中年の女中さんが付ききりで奉仕してくれる。彼女の生涯の夢は遍路に出る事だそうで、面映ゆかったが土地の者でも実行できぬのに立派なことだと褒められる。同宿者なく、夕方から降り始めた雨が軒を打つ音のほかはコソとも物音もせず人声もない旅の宿である。炬燵の中で、毎晩の夜業である明日のコース調べをする。雨、いよいよ激しい。明日の好転を祈る。だいぶ古びてはいるが、由緒ありげな風格の海浜宿場町の宿。一泊二食6800円。

 

 

           

 

遍路紀行 13日目 (1997年3月9日) 快晴

行程

33番門前民宿高知屋~34番種間寺吾川郡春野町)~35番清滝寺土佐市高岡町)~36番青龍寺土佐市宇佐町)~同じく宇佐町の国民宿舎土佐まで

歩行距離  32キロ(延べ392キロ)

この日の出来事など

1.。早朝6時50分高知屋の奥さんの見送りを受けながら出発。振り返っても、振り返っても奥さんが手を振っている。朝まだき日曜の町はまだ眠りの中。町を外れたら長閑な田園が広がっている。遍路道は舗装された農道である。辺り一面ビニールハウスばかりだ。野菜栽培用らしい。目標物何もないため地図を見ても自分の立ち位置の確認に難儀する。農道の電柱に遍路シールがところどころ貼られているのが頼りだ。8時、34番種間寺打つ。この時間、我一人のみ。

2。種間寺より35番清滝寺まで約10キロ。程なく高知県下の一級河川の大河である仁淀川の堤防に達し、ここよりやや上流の国道56号線を目指す。56号線までの道は高い壁のような堤防に沿って伸びており、仁淀川の河原も対岸の風景も全く見えない。56号線に合流するや、長い仁淀大橋を渡る。この国道は足摺方面への幹線道路である。55号線国道は室戸へ、56号線は足摺へ。これから足摺岬まで暫くのお付き合いとなる。仁淀大橋中間点で高知市春野町と別れ土佐市に入る。大橋を渡り終えて直ぐ56号線を右に逸れて再び長閑な田園地帯に入る。

3.仁淀川大橋を渡る直前に三輪自転車を漕ぐ老女を追い越す。呼び止められて400円の賽銭お接待をいただく。清滝寺方面へ行くという彼女と同行、大橋を一緒に渡り30分ほど歩きながら身の上話を聞く。この女性、81歳。久保内幸榮さんという。彼女の夫は先の戦争で戦死、若くして未亡人となったが、亡夫がまだ7歳の少年の時に登った66番雲辺寺の忘れられぬ体験をはなし聞かされていたこともあって、戦後に夫への追憶の思いから雲辺寺に登った由。今でも忘れられぬあの高山の名刹に貴方がここから遥々歩いてゆきなさるとはマア大した志や。繰り返しお褒めの言葉をいただく。(後日談。仁淀川大橋で写した彼女の写真を4月帰宅後送ってあげたら、鄭重で達筆な礼状とともに、赤、青、黄、桃色夫々のリボンで織った金魚を送っていただく。我が家の居間の天井から吊り下げられて泳ぎながらこの6月に生まれた孫の泰地のお守りをしてくれている。さて、これより20年を閲した現時点での更なる後日談。その赤ん坊も間もなく20歳の大学生。このブログも彼が開設してくれたもの。祖父と孫の権威逆転。なんぞ、歳月の疾く移ろいゆくことか!)

4.高岡町の喜久屋という旅館前で態々車を止めて70歳ぐらいの男性から500円の賽銭接待をいただく。10時20分、35番清滝寺を打つ。標高130メートルの小高い丘の上にある境内からは高岡町や仁淀川流域の村落が春の日差しを浴びてキラキラ輝いて見える。境内は紅梅満開。参拝者で賑わう茶店のおばあさんからポンカン5個のお接待をいただく。

5. 36番青龍寺に向かう。ここより約15キロ。途中3キロ程は今来た道を戻り、再び56号線に乗る。36番の在る宇佐町へは2ルートあり。一つは自動車道を行くルート。仁淀川に沿って宇佐の海に注ぐ河口まで大きく迂回しながら宇佐の海の宇佐大橋を目指す。大変な遠回りになるが、山越えは無い。もう一つは昔からの遍路古道だ。この古道は宇佐の海に向かって一直線に進む。しかし前途には遍路転がしで名高い塚地峠が壁となって立ちはだかる。名にし負う直登の塚地峠である。距離は前者に比しまるで短い。後者を行く。12時過ぎ峠登り口着。ここまでは立派な自動車道路だ。ここで行きどまり。宇佐の海にむかって峠直下を貫通するトンネルの掘削工事中である。現場が見える。これが貫通すれば自動車も大迂回がなくなり、アッという間に宇佐の海辺に達するが、遍路転がしの古道も忘れ去られるかも。遍路の歴史がまた一つ消えるおそれ。

6.用意していた昼の弁当は35番の境内でお腹に消えた。とにかくお腹が直ぐに空く。この辺りは人家も少ない寒村でコンビニ、食堂の類は無い。ましてや、峠の山中で食い物にありつける筈がない。覚悟を決め12時20分登りを開始。頼りは35番の茶店で接待されたポンカンの残り一つ。途中、峠まであと800メートルの道標あり。16両編成の新幹線ならば2編成分だ。東京駅の新幹線プラットホームは400メートル強。往復の距離に過ぎない。8分ほどで歩ける距離が30分を要した。峠通過。これより宇佐に入る。下り坂だ。左右に細い竹が群生している。暫く竹の細道が続く。サワサワと竹の葉を揺らして宇佐の海があるかと思われる方角から吹いてくる微風が汗まみれの遍路にはなんとも心地よい。宇佐の海と宇佐大橋がチラと垣間見える瞬間があったが、あとは下界の宇佐の町に下りるまで遠望の機会は無かった。午後一時、宇佐の町はずれの里に下りる。峠出入り口の近くにやっと食堂らしき建物見つける。季節外れの四国の食堂は店を閉じているケースがよくあるので,コワゴワ表に回ってみたら営業中であった。久保食堂。大盛焼きそば400円。店の女将さんによればここを通過する歩き遍路は二日に一人いるかいないかとの事。この店は遍路道関所のような要衝にあるので間違いでは無かろうが、すこし少ない感じだ。

7.宇佐はリゾートの町。海浜のリゾート。海越し左に見えた美しい姿の宇佐大橋を渡る。宇佐町の奥深く食い込んだ入り江状の浦の内湾を跨ぐ有料橋である。歩行者は無料。橋上から遠望する山々は今越えてきた塚地峠方面のものか。

8.午後2時15分、竜の浜休憩所立ち寄り。宇佐の海を満喫する。ここで同年配の男性から励ましの言葉に添えてポンカン4個お接待をいただく。今日だけでお接待4回。信仰心篤き土佐の人々。ここより暫く歩いたら36番青龍寺門前に着く。今夜投宿の国民宿舎は門前の背後に高く立つ山のうえだ。午後2時35分、青龍寺うち終わる。山門より本堂までは長く、急な石段が参拝人を威圧する。高齢者や特に団体バス遍路で足に自信のない向きは、山門で納経をすませて引き返すこと日に何十人にもなる由。なるほど、わかる気もする。

9.山門より国民宿舎までの登攀はわずか10分ほどの行程だが、塚地峠越えより更に苦しく、登り道に思わず手をついてへたり込む。動けない。30キロ以上の山坂を踏破してきた身にはこの日の最後の試練は強烈であった。お大師さんも厳しい。3時過ぎ国民宿舎土佐にチェックイン。ホテルスタイル。太平洋を一呑みの絶景。それはそうだ。これだけ顎が出るほど登ってきたのだから当然なり。案内された部屋からの眺めは一人で独占するのは罰が当たる感あり。言葉をうしなう迫力。日が暮れるまで太平洋と睨めっこして過ごす。現役時、まだ新米社員の1963年頃乗船実習で社船に乗り、太平洋、カリブ海、大西洋上で地球の円さを体感しているが、今日も地球は円かった。魚料理ずくしの夕食。一泊二食6500円。

 

 

 

遍路紀行 12日目 (1997年3月8日) 快晴 

行程 

旅籠土佐龍~29番国分寺(南国市国分)~30番善楽寺高知市一宮町)~31番竹林寺(同.五台山)~32番禅師峰寺(南国市十市)~33番雪蹊寺高知市長浜)~雪蹊寺門前民宿高知屋まで  歩行距離 37キロ (延べ360キロ)

この日の出来事など 

1.午前7時土佐龍出発。団体遍路さんたちは小生よりも早だちで、小生出発の時は昨夜の喧騒が嘘のごとく静まり返るフロントで支配人から確りと道順を教えてもらう。物部川に架かる長い戸板島橋を渡ると土佐山田町である。この辺りの畑は温室用のビニールハウスで占められ、静かな農道がその間を縫って伸びている。この辺り、目標、目印になるような物何もなく、一寸うっかりすると電柱に貼られている道標代わりの直径4センチ位の円い遍路シールを見落としてしまう。田んぼ道の途中に最近テレビで紹介された善根宿”都築”がポツンとただ一軒立っていた。農家の都築さんが歩き遍路を無料で我が家に宿泊お接待しているもの。陽が高くなるにつれ田んぼの至る所から陽炎がたち始めた。快晴。まだ3月というのに兎に角暑い。汗淋漓。真っ黒い手首が今日で更に黒焼きとなるだろう。

2.8時35分、29番国分寺打つ。10時前、知らぬ間に高知市内に入ったようだ。”はりまや橋7キロ”の標識に気づく。直ぐに30番善楽寺に着く。この寺は高知の一宮神社と神仏混淆で、寺域と社域の境が一寸見には見当がつかない。10時過ぎ30番善楽寺打ち終わる。

3.高知市の繁華街を歩いてはりまや橋や桂浜などの見物もしたかったが、31番竹林寺へのコースから外れて遠回りとなるので見物は敬遠する。右手遥かに高知市街を眺めながら国道32号線バイパスを急ぐ。高知市の郊外ではあるが名物の市電を目撃できて満足。

4.12時、31番竹林寺打つ。この寺は高知市のシンボルとして有名な五台山138メートルの高所にある信仰と観光の名所である。高知市の東、浦戸湾を見下ろす絶景の地で桜,躑躅で名高い。ケーブルカーや車ではアッという間だが、遍路古道の急坂では30分を要した。12時15分下山、32番禅師峰寺へ向かう。竹林寺境内のアイスクリーム売りの娘さんが懇切丁寧に道順を教えてくれる。これより約6キロ。高知市郊外を流れる下田川の堤防が遍路道になっている。延々と続く堤防上の遍路道。海が近いはずだが、ここは緑溢れる田園だ。ひばりが鳴き、鳶も舞う。無風、快晴。時間が止まったような長閑なひと時。携帯電話が鳴る。友人からの激励だ。南国の昼下がりの陽光の下、堤防の土手に座り今の感動を語る。下田川と別れ、田畑の野道や山間の山道など変化に富む風景の中を行く。武市半平太の生家と武市神社が並んでいる。午後2時前,ようやく食堂を見つける。遅い昼食。きつねうどん450円也。

5.32番禅師峰寺も80メートルの小高い丘の上にある。ここは高知市ではなく、29番国分寺と同じ南国市になる。80メートルといえど、長路歩き疲れた遍路にとって急坂の登りは難敵である。一息ついて休んで歩き出すと、また休みたい。一気に登り詰める。突然,八荒山禅師峰寺の山門が急な石段の前方に見えた。午後2時10分、32番禅師峰寺打ち終わる。大師堂の大師像は土佐湾の桂浜を見下ろしておられた。

6.午後3時55分、種崎渡船場に着く。禅師峰寺より渡船場までの一時間半は西日を真正面に浴び、それを避ける日陰もない一直線の単調極まる町中の道路で、疲れが倍加する。漸く着いたここの渡し船は昔より遍路道として許容されており、全遍路行程の中で唯一つ認められた乗り物である。渡し船とは言っても今は乗用車5,6台収容可能の小型フェリーである。県営、無料。午後4時15分発。所要5分。左手に浦戸大橋が迫って見える。船からは見えぬが更にその向こうに桂浜がある。かくてアッという間に浦戸湾を横切り対岸の長浜待合乗り合い所に着く。

7.午後4時半、33番雪蹊寺打つ。町寺。この寺は臨済宗。八十八ヶ所中禅宗は11番藤井寺と合わせて二ヶ寺のみ。ここの住職は納経帖の墨や朱を乾かすのに決してヘアドライヤーを使わせないと聞いていたが,偶々団体遍路の人たちにそのことで注意している現場を目撃した。殆どの納経所にはヘアドライヤーが常備されていて、納経帖に記帳後の墨や朱の湿りを乾燥させるためにそれを使えるように便宜を図っている。湿りをよく吸収する和紙か新聞紙を遍路の心がけとして用意して墨書した部分に挟めば隣の白紙の紙面には写らない。納経所の隅でガーガー騒音をたてて乾燥させているおおよそ札所らしくない無粋な慣行は多くの札所で流行しているようである。

8.雪蹊寺門前の民宿高知屋に投宿。見た目には変哲もない表構えであるが,あるじである中年の美しい女将の親切なおもてなしが心に沁みた。洗濯は小生にさせず、洗濯物を取り上げられてしまった。一切お任せ。夕食は豪勢!豪快な鰹のたたき。これだけでも食べきれない。大蛤の澄まし汁。車海老,小芋,南瓜の甘煮。野菜の和え物。化け物まがいの大粒苺のデザート。銀座千疋屋の苺もかくやと思はれるおいしさ。全て部屋まで運び込まれ、食事終わるまで遍路のよもやま話をしながらのお給仕。朝食も手の込んだ献立で、朝早くからの食事支度だろうと素人でもわかる。出発時には、玄関の上がり框に腰かけて靴を履く小生の為に,わざわざ座布団が置かれていた。頼みもしていないのに、お握り弁当を手渡される。これでなんと一泊二食5000円。心から合掌。おもてなしに対する遍路の返礼は納経札を渡すこと。納経札には住所、氏名、年齢を記す。本堂、大師堂で納経に先立って、遍路札を納札箱に入れる。その小生の札を見て、今の今まで小生の事を30代の遍路さんと思っていたという。複雑な心境也。慈母のような温かさに溢れる数々の接待に癒され,去りがたい思いで女将さんに合掌長浜を後にする。姿が小さくなるまで手を振る女将さんと遍路。