遍路紀行 7日目(1997年3月3日) 小雨、のち晴れ

行程

23番薬王寺門前の千羽ホテル(海部郡日和佐市)~同海部町のみなみ旅館まで

歩行距離 35キロ (延べ194キロ歩行)

この日の出来事

1.8時10分千羽ホテル出発。遍路宿でないため、朝食時間遅く出発も遅れる。阿波の札所はこれで全て打ち終わり、いよいよ今日から土佐高知に向かう。土佐修行道場の最初の札所である室戸の24番最御崎寺₍ホツミサキジ)までここから約90キロ、ほぼ二日半の歩き修行となる。9時前、国道55号日和佐トンネル(670メートル)通過。この辺り歩道ほとんど無いため、身体すれすれにトラックが走り怖いこと。加えて雨水をはねる飛沫が諸に遍路を襲う。今朝はトラックの行き交い多く、トラックの恐怖と飛沫の直撃で難渋するも、このトンネルまでの4キロを50分弱で歩けたのは身体好調の証拠だ。

2.日和佐トンネルを抜けるとJR牟岐線が左手に見えだす。55号線は長い下りになっている。身体が軽い。気が付けばトラックの通行量も少なくなり、歩道は無いが段差のついた側溝が歩道代わりとなって気楽に歩ける。.一つが好転すると面白いことに万事よくなる。23番より約16キロ、標高280メートルの寒葉坂通過。これより徳島県牟岐町域に入る。日和佐とはこれでお別れだ。”さよなら。海亀の来る町ーひわさ”の標識がある。

国道から見える牟岐の山並みは雲が切れ今にも雨が上がりそうだ。牟岐川を渡り暫く川を左手に眺めながら行くと、JR牟岐駅前の市街地に達する。牟岐町の内妻海岸はここよりすぐ先である。室戸岬まで60キロという道路標識が見えた。歩行体験一週間も重ねると歩き慣れによるものか、60キロという数字にはプレッシャーを感じなくなってきた。最初はあと59キロ、あと58,57キロという風に歩行距離が減ってゆくことに気がとられつつも、数字がなかなか小さくならない。これは結構苦痛であったが、今はあと2日分の距離と思えるようになってきた。細事に囚われず。発想の転換

3.薬王寺より約28キロの地点で牟岐町古江から海南町に入る。国道55号線は相変わらずJR牟岐線と海岸に挟まれるようにして室戸を目指す。間もなく同町の番外霊場鯖大師に着く。宿泊所もある立派な番外札所である。海南町の浅川湾を望む風景は美しい。観光バスも速度を落として走っている。”室戸阿南海岸国定公園”だ。歩行速度も遅く、周りの風景を眼底に焼き付ける。

4.薬王寺より約34キロ地点で海部川を渡る。渡れば海部町である。いつの間にか天気も快晴になった。海部町の海岸線は短い。隣町の宍喰まで僅か2キロ半と間口が狭い。午後2時、海部町のみなみ旅館に着く。時速6キロ、約6時間の歩行。全行程、山坂殆ど無き55号線の歩みのため迷うことも無く,快調に時間と距離を稼げた。

5.少々早すぎた到着であった。午後4時には風呂も済ます。部屋は質素なものであったが、夕食は海の幸で溢れんばかりの豪華版。蟹,海老,鱸の刺身。これだけでも食べきれない。更に鰻の蒸篭蒸し。これが圧巻。一泊二食8400円はこれまでの遍路宿より高いが料理の素晴らしさで納得。

6.両足小指裏の水膨れの腫れがひき始めた。痛みも軽く、今日の歩行は楽であった。手入れは相変わらず風呂上りと朝の出発前にするのが日課であるが、今後は新しい水膨れに悩まされる事態は起きまいという予感を我が身体が感じ始めている。 さあ、明日はまだ知らぬ高知県に入る。

 

 

 

遍路紀行 6日目 (1997年3月2日) 晴れ、風冷たい

行程

民宿龍山荘~22番平等寺(同新野町)~23番薬王寺(海部郡日和佐町)~薬王寺門前のホテル千羽まで  歩行距離 29キロ (延べ159キロ)

この日の出来事

1.朝7時半,龍山荘出発。22番まで約8キロ。遍路6日目になるが、身体のリズムが漸く固まってきたようだ。歩き始めて1時間程経過した頃の体調がベストになってきた。所謂ウオーミングアップが出来上がる頃ということか。1分間で大股135歩約100メートル、10分1キロ、1時間6キロが小生の平地巡行速度だ。9時、22番に着く。9時30分打ち終わる。バスの団体遍路とかち合う。納経所で朱印を戴く順番待ちに相当時間がかかると覚悟したが、納経所の僧侶が小生をチラッと見て「歩き遍路さんやし、一人だけやから先にやったるで。納経帖だしてんか」と、団体遍路さん達にも気を遣いながら小生を優先させてくれる親切なもてなしをいただく。有り難く嬉しい心配り。これで30分は時間が節約できる。

2.23番へ向かう。鉦打(カネウチ)という地点で国道55号線に再び合流する。徳島市内以来の再会だ。交通標識に室戸岬と表示が出てきた。四国の象徴、あの室戸岬がついに現実の姿となって小生の眼前に展開する日も近い。室戸岬までの3日間は55号線を行くことになる。道に迷う心配もなく、目を瞑ってでも室戸に行き着けるので気が軽い。幸いなことにこの辺りより室戸までは車の通行量が少なくなる由。室戸へは鉄道が無い。船か車のみ。しかも、ここから100キロ以上も離れた過疎の地である。人口も少ない。従って、この区間の55号線は産業道路の性格が希薄である。車が少なくなるのもむべなるかな。さて、鉦打交差点より55号線を一路23番薬王寺のある日和佐へ向かう。山また山に囲まれた国道ゆえ、沿道は人家など人の気配皆無。宿に弁当頼んだのは正解。ただし、弁当を開くにも国道から身を隠す場所もなく、やむなく国道の側溝に座って食す。

3.6日目にして初めてトンネルに出会う。鉦打トンネル。短かかったが歩道なく、緊張して通過。この辺りトンネル多し。福井トンネル、星越トンネルを通り抜けたら日和佐町域に入った。

4.トンネル、いわゆる隧道を全行程でいくつ通過したかは記憶にない。長いものは3キロ強もあったが、長短関係なくトンネル通行中に人と出会い、すれ違ったことは一度もなかった。自動車の通行量が激しいときは懐中電灯を矢鱈と振り回す。行き交う車がパタッと消えるようにいなくなる時もある。深い闇の底に沈む死んだような静寂の中に、金剛杖の鈴の音だけがチリンチリンとあたりに反響して不気味だ。

5.午後1時半、23番薬王寺に着く。意外に早く着いた。阿波徳島最後の札所だ。本尊薬師如来は厄除けお薬師さんとして四国の人々の尊崇を集めており、今日は日曜日ということもあって参詣を兼ねた観光客で大賑わいである。33段の女厄坂では婦人たちが各段ごとにお賽銭の1円玉を置いて厄払いをしてゆく。男厄坂の石段は42段。これも同様のしきたり。とにかく,石段という石段は1円玉だらけで足の踏み場もない。また朱色が鮮やかに映えているゆ祇塔(ユギトウ)までの本堂からの石段数は61段で還暦の厄坂を意味している.この塔は小高い丘の中腹にあり、日和佐市内を縦貫して流れる日和佐川や市街、漁港などを一望できる。

6.午後2時半千羽ホテルにチェックイン。温泉ではないが、大浴場あり。日帰り入浴客でロビー大混雑だ。ここは遍路宿ではないので、洗濯設備がない。部屋に付属の風呂も故障していて湯水がほとんど出ない。さればと言って、たくさんの入浴客がいる大浴場で洗濯するわけにもいかず、結局部屋のちょろちょろ水を使って一苦労する。食事は満足。夕食は海の幸尽くしの大漁盛り。朝夕食ともに仲居さんが部屋で奉仕してくれる。そうだ、ここは今までの遍路宿ではなく、観光客相手の旅館だった。分不相応だったが、日和佐では薬王寺参拝かたがたの観光客向け旅館ばかりで、遍路宿は見つからなかった。一泊二食10300円。

 

 

遍路紀行 5日目 (1997年3月1日) 小雨、午後より晴れ 

行程

18番門前民宿ちば~19番立江寺小松島市立江町)~20番鶴林寺勝浦郡勝浦町)~21番太龍寺阿南市加茂町)~民宿龍山荘(同) 歩行距離28キロ(延べ130キロ)

この日の出来事など

1.朝7時15分、民宿ちば出発。今日は遍路転がしを行くので、人家、食堂のあるようなところは通るまいと思って女将さんに弁当の用意頼んでおいたこと正解であった。ついでに、自宅への写真フイルム郵送も頼む。迷惑かけて悪かったかなと気づくが後の祭り。郵送料は十分渡したつもりでも、郵便局が遠いかも。これからは、通りすがりの郵便局までリュックに入れて持っていこう。

2.郵便局と言えば、いかに山深くとも人里あるところには何は無くとも、簡易郵便局は必ずあった。大方は郵便局長さん一人だけの営業だが、郵便局に口座を設けキャッシュカードを持っていれば遍路にとりこれほど便利なものは無い。山奥で現金化できる。現金を大金で持つ必要なく気楽で安全。都市銀行のカードは遍路には無用の長物である。都銀の出先支店があるのは四国では県庁所在地か一部の都市のみである。郵政民営化論争で郵便局の全国つづ浦々での郵貯サービス提供の現状を力説していた大臣がいたが、その限りにおいては正しい。

3.午前8時、19番立江寺打つ。町寺である。遍路は小生だけであるが、早朝から近所の善男善女で寺は大変な賑わいである。本堂、大師堂の仏前で納経するでもなく、ただ無言で長い時間の合掌。大師への帰依篤き四国の人々。幼少の頃、祖母に手を引かれて大阪寺町の寺々を毎月21日に大師参りした想い出と重なる。さて、立江寺近くの遍路道の傍らに同寺所縁のお京塚があった。ガイドブックから引用する。「享和3年-1803年ーの事。石州(島根県)浜田のお京という女が立江寺に詣でた時にその黒髪が突然逆立ち,鉦の緒に絡みつき離れなくなるという事件が起きた。お京は郷里で夫の容助を殺し、密通相手の長蔵と駆け落ちして心中しようとして果たせず、遍路に出たのであった。突然の出来事に驚いたお京は仏罰の恐ろしさを知って懺悔したところ、髪の毛は頭の肉もろとも離れたという。その時の髪の毛付きの鉦の緒が本堂に置かれている。立江寺は八十八ヶ所に4ヶ所ある関所寺の一つで,邪心のある者は必ず関所寺で見破られて罰を受ける」。

4.20番鶴林寺へは急峻な遍路転がしが待っている。急坂の小道であるが、最初のうちは簡易舗装されている。周りはすべて蜜柑畑なので農作業と収穫時の搬送のためには軽トラックが欠かせまい。そのための舗装であろう。一見場違いに見えるが。手を延ばせば見事に生った蜜柑が好きなだけ手に飛び込んでくる。遍路は盗まず。大師の戒めである。高度を徐々に稼いでゆく。今歩いてきた立江寺の人里が眼下に収まって見える。11時20分、20番鶴林寺打つ。標高570メートル.依然雨激しい。参拝人われ一人なり。

5.参拝に先立ち、手を洗い、口を漱ぐのが礼法であるが、山寺の場合漱ぎ場の水が涸れたままで放置されていることが多い。町寺も水道設備も整備されているであろうに、満足な手洗い場や手水鉢の用意が無い寺も多い。これをなんと見るべきか。

6.21番太龍寺へは一旦標高570メートルの鶴林寺を下り、再び太龍嶽600メートルまで登らねばならない。途中、山中に八幡神社という社あり。ここで用意の弁当で昼食休憩。雨はやんでいるが、光もささず、おまけに風強いので汗をかいた身体が急速に冷えてゆく。休む気分にもならず、おいしいお握り食べ終わるや慌てて歩き出す。直ぐ水井橋という橋に着く。徳島県の大河の一つの那賀川源流にかかる大橋である。太龍嶽へはこれを渡る。渓谷を吹き抜ける風は冷たく、狂風だ。菅笠どころか身体ごと吹き飛ばされる恐怖。眼下の河原まで何十メートルだろうか。渡り切ると再び急坂の悪路。草茫々の夏ならば果たして道とわかるかどうか。けだもの道かと間違えるかも。行く手を立ちはだかるような山が左前方に見える。どうやらあの山によじ登らねばならぬようだ。

7.午後2時、21番太龍寺打つ。太龍嶽の風ますます強く、庭掃除中の老人もこんな強風は珍しいという。この寺は大師の若き日の修行聖跡である。さすがに名刹。600メートルもある険しい山上に広大な境内。壮麗壮大な堂塔、結構な庭園、スケールが大きい。

 太龍嶽より下山の頃から陽が射し始める。暖かい。道はいつの間にか舗装路になっている。自動車も人も影形も無いが、急な下りは大好きだ。ふと気が付けば道路に影が。いつまでも仲良くついてくる。同行二人とはこの事か。道に映るは我が影か、お大師さんか。

8.午後3時、今夜の宿泊先の龍山荘に着く。山中の一軒家。家人の応答が無い。代わりに、またもや犬である。猛烈に吠えられて玄関に近づけない。暫く山々に囲まれた風景を楽しむ。玄関が自動ドアーであったのには驚いた。風呂は広々として気持ち良し。またマメの手入れである。丁寧に皺が寄らぬようテーピングして出発するのだが、30キロも歩くとテープも崩れ皺が出来、摩擦で水膨れが悪化する。皮が剝けると厄介だ。化膿しやすくなる。人によっては歩き2日目位から足裏一面に水膨れができるそうだ。これでは歩けない。手術あるのみ。遍路どころではなく、家族が迎えに来るケースもある由。それに比べれば事前の訓練のお陰か、小生の被害は軽い。間もなく水膨れの部分の皮膚はコチンコチンの分厚い皮に固まるだろう。つらの皮で無く足の皮が厚くなった分だけ重装甲される。

9.深山の宿。同宿二組。いずれもマイカーのお遍路さん達だ。松山より来たという50代後半の夫婦と、老母を連れた夫婦。矢張り四国の人らしい。6人で食卓を囲む。皆控えめで、静かな人たちだ。食後、友人に近況短信第一報の葉書を書く。気が付けば12時。慌てて就寝。この民宿一泊二食6400円。

10.ところで、遍路という祈りの旅の道場である四国が四つの道場に区分されていることは昨日の紀行文中で指摘済みであるが、歩いてみると、誰がこれをお考えになったか、実によく四国の風土も吟味した上で仏祖釈迦の生涯を歩きながら体得できる組み立てに仕立てていると思うのは小生だけであろうか。

 釈迦は釈迦族の国王の王子として生まれ、美しい妻や子供に囲まれてなに不自由ない青年時代を送ったが、29歳にして人生は生老病死、無常にして苦なりと悟り、これらからの救済解脱を求むべく、嘆き悲しむ家族と別れて家を出た。。即ち、出家である。煩悩に苦しむ衆生を救いたいという思いが釈迦の心に生まれたとき、これが発心である。小生を含め遍路に出ようとする人はなにかの囚われから解放され、心に僅かの平安を求めたいがための遍路行であろう。発心である。阿波発心の道場は高みへ到る足慣らしの場であろうか。210キロ、28ヶ寺は、ねを上げギブアップしてしまうか、いやこれなら頑張れるぞという試しの道場であろう。従って、まず平坦で楽な遍路道を歩かせ、遍路転がしの苦難も与えて遍路を試験する。これを通過すれば、いよいよ釈迦も歩んだ苦難修行を我も味わう土佐修行の道場に入る。土佐は24番から39番まで僅か16ヶ寺にも拘わらず距離は408キロ。次の寺にたどり着くのに100キロ近くひたすら歩かねばならない事もある。阿波と異なり優しく遍路を遇してくれない。荒々しい山野海岸、苦闘の毎日である。発心道場を通過できたからこその厳しい修行に耐えうる道場なのである。そういえば、土佐人の印象もよく似ていないか。トサッポという表現があるかと思うが、明治維新の竜馬や半平太の男臭さがなんとなく土佐の修行の遍路道と重なるという比喩は妥当だろうか。釈迦も悟りを求めてまずは己が身を苦行修行に投じた。しかしいかに己が身を痛めても解脱の知恵を得るどころか、身体は衰弱し、絶望のみが強まる。釈迦はここで発想の転換をしたのではないかと思う。SOUND MIND IN SOUND BODY。健全な身体あってこそ、確りした叡智が生まれる。伊予菩提の道場は荒々しさから脱却し、穏やかな心と身体で真理の悟りにあと一歩に迫る菩薩の歩む道場である。穏やかと言えば、伊予の人も総じてそうかもしれぬ。漱石の”坊ちゃん”に登場する松山中学の悪童達の土地訛りが何となく剽軽で穏やかで,おかしさがあって憎めない。「それは蝗ゾナモシ云々ーー」。そして讃岐は真理を大悟した覚者が歩む究極の理想の境地、即ち涅槃の道場なのである。システム設計の妙に脱帽である。合掌。

 

  

 

 

遍路紀行 4日目 (1997年2月28日) 快晴、風強い

行程

 13番門前のかどや旅館~13番大日寺(徳島市一宮町)~14番常楽寺(同国府町)~15番国分寺(同)~16番観音寺(同)~17番井戸寺(同)~18番恩山寺小松島市田野町)~恩山寺門前の民宿ちばまで  歩行距離 26キロ (延べ102キロ)

この日の出来事など  

1.朝7時半かどや旅館の若女将に見送られて出発.。先ず旅館横の13番大日寺打つ。朝から素晴らしい好天である。徳島市は24日以降春のような陽気が続いているらしい。14番へは女将さんに教えられた通り、旅館横の田んぼの畦道を抜け鮎喰川に突き当たり、堤防上を行く。土手には土筆が頭を出している。小学唱歌の”春の小川”を口ずさむ。良い気持ちだ。鮎喰川を渡り7時50分、14番常楽寺打つ。ここより17番までの三ヶ寺は距離で僅か4キロ程の間にあり、住所も同じ町内の国府町内の町寺のため道に迷う心配もなく快適な遍路行を楽しめた。JR高徳線国府府中駅横の踏切を渡ってすぐに15,16番を打ち、少し歩けば17番山門に到る。15番国分寺8時20分、16番観音寺9時、17番井戸寺10時10分いずれも山門到着時刻。

2.四国は弘法大師の昔より行政上の区画は阿波(徳島県)、土佐(高知県)、伊予(愛媛県)、讃岐(香川県)の4ヶ国に分けられ現在に至っている。国分寺は夫々の国の国府に建立された。従って、八十八ヶ所の中で国分寺の名を持つ寺は4ヶ寺、即ち阿波の15番、土佐の29番、伊予の59番と讃岐の80番である。また、八十八ヶ所国別分布は以下の通り。

  阿波(発心の道場)  1番 ~ 23番     遍路道 約210キロ

  土佐(修行の道場) 24番 ~ 39番     遍路道 約408キロ

  伊予(菩提の道場) 40番 ~ 65番     遍路道 約365キロ

  讃岐(涅槃の道場) 66番 ~ 88番     遍路道 約163キロ

なお、-番札所を「打つ」と言う言葉遣いは、納経を済ませ参拝を終えた印に昔は寺の柱などに生国氏名を墨書した木札を打ち付けたことに由来するとか。

3.井戸寺で大師所縁の古井戸に覗き込むように顔を映していたら、客待ち中のタクシーの運転手さんが寺の由来を親切に説明してくれる。「こんなに顔のはっきり映るお遍路さんは珍しい。えれえ、丈夫なお人なんじゃな~」と褒めていただく.。因みに、言い伝えによれば顔が映らぬ者は3年以内に命を失うとか。

4.井戸寺より18番へはまず県道30号線を行く。間もなく国道55号線に合流し徳島市の中心街へと向かう。井戸寺より18番までは18キロ強。殆どを55号線で行く。四国の数ある国道中の大動脈と聞くが,成程東京の環状7号線並みの通行量か。車の流れは間断なく、途切れることが無い。殆どがトラックだ。途中、バイク遍路中の40代の女性がバイクを止めて小生を激励してくれる。遍路も色々あるものだ。中鮎喰橋を渡る。昨日は鮎喰川の源流を歩いていたが、今日はもう河口近くだ。あれほど水満々の清冽な鮎喰川が今は川と言うのに水の流れが無い。

5.正午、徳島駅前通過。駅前はそごう百貨店が占めている。この後、道を間違える。大きな街では道路の交差が多すぎて、余程目につく目標が無いと左折、右折を間違える。高知、松山、今治の市内でも間違えた。また、こんな都会では道を尋ねても答えられぬ人が多い。

6.市内の中華そばやで昼食。市内の遍路道を外れて迷い込んできた遍路を見て、女将さんには歩き遍路が珍しかったようで、あれこれ話しがてらに激励してくれる。食事しながらテレビの昼のニュースを何気なく見ていたら、小生現役の頃から日米間で燻っていた日本の港湾問題で、米国連邦海事局が遂に米国に寄港する日本商船に対し高額の制裁金を課するとの対日制裁発動の旨を報じる画面で、小生勤務先であった日本郵船会社先輩の坂田副社長が日本港湾協会長としてコメントする姿が映っていた。まさかこんなところで,かっての職場の親しかった人の姿をみかけるとは!浮世を離れた出世間にいるつもりの人間が俗世間に立ち戻ってしまった。

7.国道55号線バイパスに入る。既に徳島市中心部はぬけている。片側3車線、一直線に単調に走る大動脈。午後1時、徳島市の象徴の眉山が右手に見えてきた。5月を思わせる暑さ。ここは2月末というのに、初夏である。昼から風が強い。南風か。菅笠は雨には強いが、風には弱い。風圧で笠が吹き飛ばされそうだ。右手に金剛杖、左手で笠の縁を掴み、強い向かい風に身体を預け国道をひたすら歩く。単調、無味乾燥な風景。疲労が倍加する。勝浦川を渡る。ここでバイパスの中ほどか。先は遠い。一に体力、二に忍耐克己心。沿道には食堂が多い。いずれも大駐車場完備。この辺り、6車線の国道の左右は偶に事務所風のビルと食堂が散見される程度で商店は見当たらない。見まわす限り徒歩の通行人は小生のみ。疾駆する車、車。周辺の食堂は自動車客が相手であろう。”日愛”という民芸風御殿を模したうどん屋あり。昼食から左程時間は経っていないが休憩もしたいので入ってみる。一人歩きの遍路は矢張り珍しいのか仲居さん達から大歓迎を受ける。一番安いものを頼む。それでは冷やしうどんが良いという。木造で和船を模った30センチ位の入れ物に縦一列に盛り付けされた大盛讃岐うどんだ。つけ汁には鶉卵を割る。これが最高に美味。これで500円。安さと量と美味しさと盛り付けの見事さに感激。仲居さん達に賑やかに見送られながら勇躍行進再開。

8.午後3時15分民宿ちばに着く。13番門前宿を今朝発ったのであれば、ここには午後6時頃到着が普通とか。リュックを預け、身も軽く18番恩山寺を打つ。同宿者は他に2組。マイカー遍路の60代の夫婦。ほかに名古屋からの小生と同年配の男性遍路一人。足が弱いのでタクシーでカンニングしていると。明日もタクシーだそうだが、交通費が大変だろう。彼から夕食の席で酒を勧められたが断る。彼も遍路の身、無理強いはしなかった。一泊二食6400円。

9.ついに、水膨れができる。秩父巡礼を含め前もって300キロ程歩いて足を鍛えたつもりであったが、矢張りできた。両足小指裏に加え今日は左足踵横に3センチ大の血まめ。明日にはこれも水膨れとなろう。これから当分まめの手当てという夜業が増える。焼き針を患部に突き刺しとおして水を抜き取り,ヨーチンで消毒し,絆創膏テープで患部の皮膚に皺が出来ぬよう慎重に巻く。皺があると、ブヨブヨの水膨れの皮膚が摩擦で剝け易い。かくて4日目無事終える。お大師さん有難うございます。

 

 

 

 

 

 

遍路紀行  3日目 (1997年2月27日) 晴れ

行程  

11番藤井寺~12番焼山寺名西郡神山町)~13番大日寺門前のかどや旅館まで(徳島市一宮町)  歩行距離 38キロ (延べ76キロ)

この日の出来事など 

1.ふじや旅館7時出発。カーデガンと予備用の靴の処分を女将さんに頼む。2日間歩いてみて悟る。とにかくリュックを軽くすること。11番寺は宿の隣で再度参拝。本堂左横に12番焼山寺に到るかの悪名高き遍路転がし登り口あり。急坂の悪路に踏み込む。八十八ヶ所それぞれのご本尊である八十八体の風化した石仏群が佇立して遍路を見送って下さる。人ひとりがやっと通れる急坂難路に倒木、岩石が道を塞ぎ、胸を突く登りが遍路を妨げ苦しめる。2月下旬の早朝にも拘わらず満身の汗と荒い息遣い。10歩登っては10歩登ってきた下を見下ろし、今度は10歩登る上を見上げて立ち止まる。亀の歩みだ。一人遍路でよかった。同行者あれば、このようなマイペース歩行は出来まい.。所どころ、猫の額ほどの平坦な場所に休憩所もある。突然展望が開けて遥かに吉野川が眼下に。昨日渡った阿波中央橋が霞んでいる。昨日参拝した寺々は吉野川流域越しの奥に見える山並みの麓にあるのだろう。遥か彼方だ。人の脚力の凄さ。12番への道のりはまだまだ遠い。今、喘ぎ登ってきた山が左に見える。

2.8時10分長戸庵に至る。ここまで3キロ強。平地なら30分の距離。この庵は大師ゆかりの番外札所だが、荒れるに任せた無人のいほりだ。杉の巨木に囲まれ昼なお暗い。この辺りのみ平坦な地形だ。庵と呼ぶには名ばかりの粗末な木造りである。野宿なら何とか雨露を凌げるか。うっかり足を踏み込むと床が抜け落ちそうだ。心経読誦。

3.9時、同じく番外札所の柳水庵参拝.。庵主老夫婦がここを守って、宿泊もできる由。背の高い広縁越しに声を掛けたが応答なく、納経を済ませて立ち去る。庭に樋を通して山水が流れ落ちている。手に掬って飲む。甘露なり。遍路への優しい心遣いがありがたい。再び山中に踏み入る。送電線を山から山に渡す鉄塔がこの山、あの山と谷越しに随所に立っている。四国電力の補修作業員数人が作業中であった。『今日は」と挨拶をかわす。資材搬送のヘリコプターがホバリングして待機している。彼ら作業員もここまでヘリで送迎されるそうだ。山中深く、人と出会うのは嬉しい。

4.10時過ぎ、一本杉庵に到る。急坂を登り切ってもう先には山は無かろうと思った峠から弘法大師立像が高く大きく遍路を見下ろしておられた。仰ぐような巨像の記憶だけが残っていて、申し訳なきことながらほかの事は覚えていない。庵は無かったと思う。よほど疲労困憊していたのだろうか。

ここから本日初めての下りとなる。小生は下りが大好きだ。跳ぶように距離を稼ぐ。間もなく舗装された道路にストンと下り立つ。犬の鳴き声が聞こえる。後で判ったことだがここは左右内村(ソウチムラ)という山間の寒村。ここで右に進路をとって自動車道路を更に山奥へと進むべきところを、左に折れて人里のほうへ下り始めた。本能が上りよりも楽な下り坂のほうを選んだか。どうもおかしいと、農家の庭先に回って道を尋ねようとしたが、犬に猛烈に吠えられ人もいない様子で諦める。漸く農作業中の老婦を見つけて尋ねる。不得要領だがどうやら道を間違えたらしい。今来た道を後戻りする。相当の距離を無駄にした。村道は山を登るに従い細く林道のような険しい道になってゆく。地図を見てもいまどこにいるか見当がつかない。二股の分岐点に来る。右か左か,何かヒントになるようなものが無いかウロウロ探したが徒労。ままよとリュックをおろして道端に座り込んで休憩。10分ほど経ったら小型トラックが来た。これぞ奇跡、天祐だ。普通なら、こんな鳥も通はぬような場所では何時間待っても犬も通るまい。それが僅かの休憩で仕事中の村の老人に出会うとは!正解は左に進路をとれ。苦しい登りの悪路である。左右内村の村道にストンと合流したとき今日の登り歩きはこれ限りと思い込んだ気の緩みが、再びの登攀を心理的にも一層苦しいものにする。遍路3日間の経験で判ったことだが、遍路山道に限り木の枝に道標代わりに赤い布切れが括り付けてある。しかるにこの道にはそれが無い。また間違えたか。町中で迷うのとはわけが違う。募る不安。今度こそ誰にも会えまい。急坂を登る喘ぎが高まるにつれて不安が同調する。山を二つ、三つ越えたであろうか、やっと木の枝に件の道しるべが結び付けられているのを発見。地獄に仏!

5.12番焼山寺には,斯くして予定より1時間以上の遅れで12時10分辿り着く。小生の足では平地ならば2時間少々の13キロを5時間要して歩く。12番焼山寺を打つ。遍路案内資料では境内の茶店の饂飩が美味とある。しかし、営業は3月より。残念。急に空腹を覚える。宿のお握りは山中で食べてしまった。とにかく直ぐ腹が減る。非常食用のカロリーメイトを齧りながら13番大日寺を目指し山を下る。

6.玉ヶ峠を越えるため再び登りである。杖杉庵という大師古跡を通る。峠への途中集落を過ぎる。田中食堂と看板あり。どこから見ても田舎の素朴な老奥さん,何も無いがとぶっかけ饂飩に卵を割って食べさせてくれる。ご飯と沢庵がこれについて、たったの400円。素朴な味が嬉しかった。近所のおばあさん達も加わって賑やかなひと時。元気回復。玉ヶ峠への登り道は段々畑が道ずれだ。段々畑から遥か下のほうの田中食堂を振り返り見たら,おばあさん達が手を振って別れをおしんでくれていた。長閑な、気だるいような春うららの暖かさに包まれた山間の一情景はいつまでも忘れえぬ懐かしい思い出である。玉ヶ峠は右も左もどこを向いても長閑な梅の里であった。

7.峠の山中にも農家らしい集落があった。峠の道は生活道路だから舗装されている。初老の主婦が走り出てきて「お遍路さん、どうぞ」と蜜柑のお接待を頂く。歩きながらいただく。美味しい!梅林と蜜柑畑だらけの峠の下り道。なんとなく豊かな気分である。

8.農家の集落、特に山里を歩いていて迷惑するのは犬が多いこと。町中と違い滅多に通る人間も居ないし偶に通る人があっても近所の顔見知りであろうから犬も吠えまい。町中では許されない犬の放し飼いもここでは不都合は無い。しかし、異邦人の遍路にとっては大変困る.。犬からみたらリンリンと鈴を鳴らして胡散臭い奴が通る。格好の退屈しのぎだ。柴犬程度ならどうということも無いが、えてして犬相の悪い見るからに獰猛そうな奴につき纏わられるから厄介だ。玉ヶ峠の山里だけで3回、5匹。一度は堪忍袋の緒が切れて杖で身構えたが大事にはいたらず。歩き遍路には犬と蝮と長いトンネルが大敵である。

9.玉ヶ峠の下り道、はるか眼下の渓流は鮎喰川の源流であろう。この川は徳島市内の河口付近では吉野川と並行するように流れている。峠より見る鮎喰川の流れはあくまでも清く、穢れを知らぬ気である。周りは梅、梅、梅一色である。峠を下り終え里に入る。鮎喰川に沿って走る県道を行く。漸く徳島市に入る。

10.宿泊予定先の神山町阿野の植村旅館に午後3時着く。ここの老奥さん、まだ時間も早いことだから10キロ先の13番門前の旅館まで行きなさいとわざわざ電話までし紹介、予約をしていただく。これも商いぬきのお接待であると。しかし、この10キロはきつかった。28キロほどの予定歩行距離が40キロ近くになった。午後5時、13番門前のかどや旅館に気息奄々辿り着く。バス団体遍路客で溢れかえっていた。夜,襖越し右も左もいびき、いびきの大合唱会。おそらく、此方も負けずに唱和したことであろう。一泊二食6800円。

 

遍路紀行 2日目 (1997年2月26日) 雨のち曇り

行程

旅館森本屋~6番安楽寺(板野郡上板町)~7番十楽寺(板野郡土成町)~8番熊谷寺(同)~9番法輪寺(同)~10番切幡寺(阿波郡市場町)~11番藤井寺麻植郡鴨島町)~藤井寺門前ふじや旅館まで  歩行距離 27キロ (延べ38キロ)

この日の出来事

1.6時起床。激しく軒打つ雨音。気持ちは今日が本番スタートの初日である。それにしては豪雨の洗礼だ。苦あれば楽あり。初日から苦しい体験をしておけば、知恵もいろいろつこう。体調は絶好調。朝の味噌汁が殊の外美味しくお代わりする。ちょっと厚かましかったかと後で反省。7時、ゴアテックス製完全防水の雨衣、雨ズボンを白衣の上に纏い、菅笠を傘代わりに、金剛杖を我が先達として、雨にしぶく時代劇もどきの町中に一歩を踏み出す。菅笠は今風にビニールコーティングしてあるので、雨には強い。傘などさして遍路はできぬ。ただ、歩きながら雨中で地図を開くと菅笠の縁から垂れる滴が丁度地図を濡らすのには困った。右手に金剛杖、左手に遍路地図帳を持って歩き、地図で常に現在位置を把握する。これが歩くことへの自信に繋がる。雨の日にはこれができない。濡れぬように地図を頭陀袋に入れるからだ。ポイント、ポイントでのチェックができない。地図をチェックするための適当な雨宿りの場所が何時もあるはずがない。雨天の日に限って道に迷うケースが多い。雨中歩行時の頭痛の種は大切な地図の取り扱いであった。

2.札所と遍路人の接点は納経所である。本堂、大師堂での納経の証は納経帖に朱印を頂くことである。朱印料は四国札所一律300円。遍路を今風に譬えればスタンプラリーのごときものだ。納経を終え、納経帖を持って納経所へ現れる遍路を待っている寺の朱印記帖人は住職、その他の僧侶、寺男、寺女、住職の家族など様々である。総じて、寺男風の人が多いが僧籍者であれ何であれ遍路への対応は様々だ。励ましの言葉に感激し、疲れを忘れさせてくれる会話や出会いもあれば、何気ない遍路の言動を語気荒く詰る寺男もいる。無言の行の修行中か、一言の言葉も発せぬ納経人もいる。ある納経所では、納経帖をカウンターに預け置いたままで本堂に向かおうとしたら、寺男に血相変えて怒鳴られた。「他の納経帖と間違えたらどうするんや!」。10冊位の納経帖が積まれて朱印を待っている程度であり、表紙に名札もきちんと貼ってあるのだが。霊場とは言えこれが人の世の縮図か、あるいはお大師さんのお試しか。怒りに対し怒りで返してはならぬ。遍路十善戒の一つに瞋恚の禁あり。怒りは禁物。怒れば汝が地獄に墜ちる。(投稿者者註:  納経帖に朱印を頂くのに時によっては順番待ちで30分位並んで待たねばならない。。バスの団体遍路に先を越されるとバスガイドが50名分ほどの御朱印帖をドサッと持ち込んでくる。これが2台,3台になるとその倍を待つことになる。時間を急ぐ歩き遍路にとっては大問題。本来ならば参拝納経を済ませた後に御朱印を頂くべきなのだが、参拝前に預けて時間を節約することにした)。

3.朝8時半より午後1時にかけて6番安楽寺、7番十楽寺、8番熊谷寺、9番法輪寺、10番切幡寺を打つ。宿から10番までで約16キロ。昼過ぎ雨やむ。嬉しい,有り難い。南無大師遍照金剛。嬉しいにつけ、苦しいにつけ、素直にこの八字の名号が口から漏れ出ますように。6番から9番までは長閑な田んぼや集落の中を通ってゆく。田畑も人家も枯れたような淋しげな佇まいだ。道は殆ど平坦で距離を稼げる。10番の切幡寺だけは小高い丘の中腹にあって、境内の333段の石段にやや手こずる。

4.9番法輪寺門脇茶店の女主人から声をかけられ焼き芋のお接待をいただく。この後至る所で食べ物、お金、激励の言葉などの声かけ、車で送ろうとの車接待(これだけは鄭重にお断りするが)など諸々の布施に預かるが、早くも2日目にしてお接待を頂く。「歩き遍路さんに限ってお接待させてもらっています」と、50代の女主人。

5.10番から11番まで約11キロ。稀に食堂を見つけても営業していない。途中で漸く見つけたよろずやさんで手に入れたアンパンが昼食となった。教訓。弁当は出来るだけ宿で用意してもらうこと。前方に吉野川に架かる阿波中央橋のアーチ状の鉄橋が見えてきた。15時ころ通過。本格的歩行の初日ゆえの緊張による疲れか860メートルの橋が数キロにも感じた。11番藤井寺はこの橋の向こう更に前方に霞む山の麓にある。橋を渡れば鴨島町だ。今日初めてのマチだ。人が大勢歩いている。車が渋滞している。なにかホットする風景。食堂もある。遅い昼食。お好み焼き大判480円。

6.午後4時、11番藤井寺打つ。(八十八ヶ寺中、この寺のみを藤井デラという.。他は例外なしに**ジ。理由は今回調べ損ねた)。山門くぐってすぐのところに大師お手植えと伝えられる藤の古木がある。境内にも藤が多い。寺名の由来であろうが、5月ごろはさぞかし見事なものだろう。門前のふじや旅館は同宿者無し。素泊まり朝食付き4800円。鴨島で夜食用の弁当買う。これをリュックに詰めたら,何とリュックが重く感じられたことか。日が経つほどにこれしきの事には不感症というか身体が慣れていったが、10キロ近い重量のリュックを背負って8時間余り歩き続けた初日の全てが初体験の新米遍路にとっては身体がバラバラになる寸前なのに、弁当一つの重みが鉛の錘に化けてしまった。リュックの紐が肩に食い込み身を責める。今日の宿には洗濯機無し。入浴時に同時に洗濯も済ましてしまう。当然脱水機も無いので手で絞る。布地厚いズボンは絞れたものではない。乾燥夜業は一苦労で9時までかかる。すぐ就寝。静かである。外は漆黒の闇。明日は新米遍路にとって最初の難関,所謂”遍路転がし”と俗に呼ばれる12キロの悪路,難路の山越えである。食堂有るはず無く,女将さんにお握り弁当頼んでおく。

7.それにつけても遍路道沿いのゴミの多さよ!自動車、家電製品など粗大ごみが主。今日で四国は2日目なのに、人里離れた山中や長閑な野中の路傍でも人目につかぬ所であれば、所かまわずゴミ、ゴミの山である。ごみが投棄されていない場所と言えば、車が入り込めぬ処だけといっても過言では無い。憧れの四国の山河が斯くもゴミで荒廃、汚染されているとは嗚呼情けない。

遍路紀行 1日目(1997年2月25日)曇りのち雪

行程

1番霊山寺徳島県鳴門市坂東)~2番極楽寺(同)~3番金泉寺板野町)~4番大日寺(同)~5番地蔵寺(同)~地蔵寺門前旅館森本屋まで

歩行距離 11キロ

この日の出来事など

1.未明5時,港南台自宅出発。吐く息が白い。十八夜の月がまだ天心に皓々と輝いている。もの皆凍てつく寒さ。身体の震えは寒さだけによるものか。暫し俗世間との訣別の覚悟の証の坊主頭が殊の外寒い。(歩き始めてすぐにわかったことだが、坊主頭は正解であった。洗髪、整髪不要。汗をかいても手拭一撫でで爽快。身軽。)

2.いざ、四国へ!

   ひかり31号         新横浜06:30ーー岡山10:07

   マリンライナー19号     岡山 10:38ーー高松11:37

   うずしお7号         高松 11:42ーー引田12:23

引田駅で徳島行普通列車に乗り換え、1番霊山寺最寄りの坂東駅12時59分着。

3.午後1時20分、阿波鳴門1番札所霊山寺山門に着く。寺内に遍路用品売店がある。白衣、菅笠、金剛杖、頭陀袋,輪袈裟など一式買い揃える。ピカピカの遍路の誕生。この寺は八十八か所1番霊場であるため阿波の観光地であるというよりも、四国観光の名所である。そのため、遍路も多いが一般観光客が2月というのに溢れんばかりである。昔は,この様に季節無関係に観光客で賑わういくつかの札所を除いて四国の2月は遍路の超閑散期であったが、最近はバス、マイカー利用の遍路が年間を通して参拝するので2月といえども遍路が多い。それだけ季節感覚が希薄になってきているようだ。「花遍路」と言うような美しい響きを持つ言葉が死語にならぬよう願うばかりである。しかし、さすがにこの時期の歩き遍路は少ないようである。37日間の遍路中に出会った歩き遍路は6人ほどであった。

4.この寺は歩き遍路に限って住所、氏名、年齢、遍路出発日を記帳する大学ノートが用意されている。聞けば、四国遍路は年間10万人、うち歩きは1000人程度、さらに通しで完歩するのは300人前後とかで(投稿者註。2017年現在はもっと増えている?)、無事完歩した遍路は霊山寺に戻ってお礼参りするのが慣わしである。そしてその場で出発時に記帳した件のノートの自分の欄に満願成就の日付を赤字で記入して遍路の旅は完結する。パラパラとこの古びたノートをめくって見ると、ところどころに赤字の日付が散見できた。果たして小生や如何?途中で挫折せんか、このノートとの再会は不可。ただ、大師のご加護を請い願うのみなり。

5.本堂と大師堂で生まれて初めての般若心経の読経。持ち前の大声が出ない。蚊の鳴くごときか細い声で納経。このような体たらくでは先が思いやられる。とまれ、家内安全、安心立命、6月に生まれ来る初孫の幸い多からん事など欲張りすぎてお大師さんも苦笑いかもしれぬが、何卒お聞き届けくださるようにと一心不乱に祈願する。

6.午後2時、霊山寺を打ち終わり、いよいよ遥か1200キロへの祈りの旅立ちである。天候は曇り、底冷え、時に小雪が舞う。2時からの歩きはじめの為今日は5番までの11キロとまり。2番、3番、4番5番までの寺々は霊山寺の賑わいが嘘のように静まりかえっていた。今日の寺々は皆町寺かと思っていたが、霊山寺を除いてはいずれも寂しい山間に鎮まっている。3番を打った後、4番への道を間違える。不慣れのため、道標を見落としたようだ。勘に頼る歩行となった。走る車もなく、人影もなく、人家もない自動車道路。なんとか4番に着く。計算よりも1時間のロス。4番打ち終え5番への途中から雪本格的に降り始める。

7.午後5時前、5番地蔵寺に着く。山門が閉まる直前、間に合う。四国の札所は開門、閉門時間は皆午前7時より午後5時まで。時間外は参拝もできず、納経帖にも御朱印をもらえない。5時20分、門前の森本屋に着く。一見、昔からの遍路宿と直感できる古色蒼然とした佇まいだ。まず玄関口で金剛杖を洗う。金剛杖は大師の化身である。部屋に入れば床の間かそれに類した上座を探し杖を安置する。遍路の掟である。招じ入れられた和室は本床付きで、ほかに電気炬燵と石油ストーブあり。ストーブはマッチで点火する骨董品だ。同宿者無し。風呂に入っている間に洗濯機を借りる事にした。恥ずかしながら、この齢になるまで洗濯機には触れたことも無かったので、これあることを予測して家内から事前に学習はしてきたのだが、機種が違うためかうまくいかない。裸でウロウロ。女将さんに助けてもらう。食事の後、就寝までの間持参のヘアドライヤーで洗濯物を乾燥させる。毎晩欠かすことの無い必須の夜業であった。地図で明日の行程を吟味し、頭に叩き込む。これも欠かせぬ夜業だ。夜8時。雪から雨。聞こえるのは激しい雨音と宿の幼女の声のみ。女将さんには朝6時起床、朝食、7時出発できるよう頼む。遍路は朝の早発ち、夕べの早仕舞いが理想。さすがに遍路宿、心得たもので一切承知。8時半就寝。かくて新米遍路の第一夜は事無く更けていった。一泊二食6000円。