遍路紀行 28日目 (1997年3月24日) 快晴

行程

越智郡菊間町の月の家旅館~54番延命寺今治市阿方)~55番南光坊(同.別宮町)~今治市内共栄町のホテル青雲閣まで  歩行距離 20キロ (延べ867キロ)

この日の出来事など

1.朝8時半、月の家旅館出発。明日の宿泊先の距離上の調整の為、今日は僅か20キロの歩きで今治市内で宿泊することにした。従って朝の出発も遅くした。初めての事。昨日同様、左に瀬戸内海、右に予讃本線を見ながら196号線を行く。伊予亀岡駅を過ぎて暫く行くと菊間町/大西町の境界の青木峠にかかる。峠とは言えなだらかな丘のようなもの。峠の茶屋でそこのおばあさんから蜜柑のお接待をいただく。般若心経をあげて欲しいと請われたのは最初で最後の体験であったが、国道の路上で人と対面合掌しながらの読経は流石にあがったのか、何度も詰まる。托鉢行脚は言うに易く、行うに難し。読経を聞いていた隣の果物店から青年が飛び出してきて遍路に合掌。オロナミンドリンク2本お接待をいただく。

2.今朝の冷え込みは厳しい。寒い。峠から大西町海岸に下り、海風に震えながら国道を遮二無二歩く。すこしは体が温まる。10時半吉田橋を渡って今治市に入った。左前方に造船所の大型クレーンが林立して見える。ここは四国最大の造船基地である。活気が伝わってくる。また、今治タオルの生産・輸出でもよく知られており、今では今治港は国際貿易港として外航海運会社も競って定期船を寄港させるようになっている。嘗ての職業柄、今治には思い入れが深い。

3.11時15分、54番延命寺打つ。正午、55番南光坊うつ。いずれも町寺。ことに南光坊今治市の中心地にあってJR今治駅今治港、歓楽街に囲まれている。今日は小生亡母の七回目の祥月命日にあたる。54,55番札所では亡母の菩提供養を懇ろに祈念する。

4.午後1時、ホテル青雲閣に着く。朝の出発を1時間も遅らせて調整したがそれでも早すぎる到着だ。周りはバー、クラブ、飲食店が軒を連ねるネオン街であった。けばけばしい彩りの建物に囲まれて何となく場違いの青雲閣は古びたままの4階建ての大きな身体をもてあますがごとく建っていた。韓国、中国にお株を奪われた日本の造船業界は国際競争から脱落する一方にある中で当地の造船会社は今でもよく健闘していると思うが、日本の造船業が世界をリードしていた往時にはこのホテルも随分と賑わっていたのであろう。古いが立派な建築である。一見、城郭のごとき風格がある。今は1階がラジューム公衆浴場、上階がホテル営業だが果たして宿泊者は小生のみのようであった。部屋予約時の打ち合わせ通り、無人の2階フロント受付を通り過ぎて勝手に3階のローズという部屋に入る。長い廊下は照明も無く真っ暗である。部屋のドアーは開いていて、鍵も予約時の電話で説明を受けた場所に置かれていた。全て打ち合わせ通りの手順である。夕方、中年の婦人が部屋を訪う。予約電話を受けた女性だ。声や話しぶりから想像した通りの聡明そうで、どこか愁いを秘めているかの美しい婦人であった。おそらくここのオーナーであろう。素泊まりの確認。洗濯設備がないのでコインラウンドリーに行ってほしい。部屋のバスは使用不能。代わりに1階のラジウム浴場を使ってほしい。今日は定休日なので四つある大浴槽のうち一つを使えるように用意しておくと。明朝の出発は好きな時間でよい。ただしフロントは誰も居ないので見送りは出来ない。これだけの事をてきぱきと説明してから、人手を節約して不自由を掛けることの詫びを言う。素泊まり料金3605円、女主人に前払いする。

5.チェックイン後の時間は有り余るほどあるので、市内見物だ。近所のすし屋で一寸遅い昼食の後、今治港今治城、商店街、今治駅周辺を歩き回る。明日の朝食用にそごうデパート内のアンデルセンでパンを選んでいたら、中年の女性店員がお遍路さんかと声を掛けてきた。遍路装束類はホテルの部屋に置いてきており、一見遍路とわかる物は何も身につけていない。どうして分かったのかと尋ねたら何となくそう感じたという。敢えて言えば、坊主頭であること、手も顔もこの季節に似合わず日焼けで真っ黒なためだとか。この女性、ほかの客をほったらかして小生に質問の嵐だ。熱意に脱帽。歩き遍路は地場の人にとっても憧憬と尊敬の対象なのか。益々精進努力の要あり。

6.日が暮れて、1階の公衆浴場に行く。ラジウム風呂とは楽しみだ。今日は定休日のため正面入り口は閉まっている。教えられた手順で裏口から浴場に入る。高い天井から40ワット位の電球が唯一つポツンと広い脱衣場を照らしている。大浴場の照明スイッチの在り処を探したが徒労に終わる。とにかくこの薄暗い脱衣場の電球が広大な浴場を含む全施設の唯一の照明源である。恐る恐る手探り、足の爪先探りでそろそろと浴場の扉を開けて入る。高いドーム天井で、ローマ風呂もどきだ。プールのような浴槽が四つ。本当にそのうちの一つに湯が沸いているのだろうか。出入り口に一番近い浴槽に足を入れる。熱い!湯加減満点だ。浴槽に身を沈める。しかし広い。手元真っ暗。湯は透明か白濁か。全く分からない。ガラス越しに仄暗い明りがボーっと脱衣場を照らしている。高い天井から湯気の滴が一滴ポツンと落ちると、暗闇の底に静まり返っている浴室全体がポツ~ンと不気味に反響する。小生一人だけ。何となき妖気。あの道後の湯の悦楽をもう一度味わいたい気持ちも吹っ飛んでしまった。早々に風呂を切り上げ、窓越しにネオンの点滅を眺めながら眠りにつく。