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遍路紀行 31日目 (1997年3月27日) 曇り、のち晴れ

 

行程 

小松町の旅館小松~63番吉祥寺(西条市氷見)~64番前神寺(同.州之内〉~宇摩郡土井町の蔦廼家旅館まで  歩行距離 33キロ (延べ962キロ)

この日の出来事など 

1.昨夜の雨は今朝は小降りになっている。今回の遍路行では”夜は雨、明ければ晴れ”の幸運に一再ならず恵まれる。7時旅館出発。この辺りの11号線は人の歩行を全く考えてくれていない。歩道がない。それかあらぬか、歩行者は小生以外影も形も無い。自動車の流れは絶え間なく、それもトラックが圧倒的に多い。体に触れんばかりに、猛スピードで飛沫を上げて驀進するダンプカー。排気ガスで喉がおかしい。四国では、遍路を轢き殺したらその罪九族に及ぶといわれているので運転者は歩き遍路に優しいと聞かされていたが、どうしてここではまるで絵空事だ。身を縮めるようにして歩く。旅館を出て10分ほどで小松市から西条市に入る。

2.7時20分63番吉祥寺を打つ。町寺だ。大型バス2台の団体遍路で今朝もにぎやかだ。100名位か。これまでの30日間は偶にバス遍路1台か2台に出会う程度で気にもかけなかったが、昨日今朝のような事態にあちこちで遭遇することになるとこれは困る。その日の歩きスケジュールに影響する。いよいよ3月下旬から遍路の季節が始まったか。小生の納経の声も彼らの納経大合唱の前に途切れがちである。一方、納経所で御朱印を押している女性はこの寺の梵妻さんであろうか、にこりとも笑顔も見せず、黙々と恰も無言の行を守るがごとく”仕事?”をこなしているかの印象也。

3.8時10分、64番前神寺打つ。小高い山の麓にあり、先ほどの町寺とは対蹠的に静かな佇まいである。さっきの大型バスが先着していたが、既に出発直前でかち合いは避けられた。バス遍路さんたちの陽気な声と一緒にバスが去った後は幽邃森厳な霊場に戻る。聞こえるのは鶯の鳴き声のみ。我独り。誰はばからず心ゆくまで心経を納経する。

4.前神寺からは今夜の宿泊先の土居町まで28キロをひたすら歩く。幸いなことに国道11号線と並行して昔からの旧街道が遍路道として残っている。西条農業高校近辺は桜祭りのぼんぼりや提灯飾りで華やかな空気だ。桜並木は薄桃色に染まっている。少し離れた左手の国道は車の帯が出来ているが、我が歩くこの旧街道は古い民家と長閑な田んぼのある古き良き遍路道である。詩心の無いものも詩情を感じずにはいられまい。

5.新居浜市に入る。ここでも有難いことに国道を左に見て、狭い道幅ながらも旧街道をのんびりと歩ける。延々と続く旧街道。延々と続く時代劇さながらの長屋風の家並みは民家か或いは居眠っているかのような商店。〝舩木国道 遍路道合流点”という標識のあるポイントで、一旦11号線に入る。再び車への恐怖。思わず緊張が走る。ここから暫くは一直線の長い登坂の峠越えである。越えれば新居浜市から土居町に入る。

6.午後1時20分土居町に入る。国道11号線はエンジン全開で峠を上る大型トラック群の排気で汚染。全身汗と埃にまみれた苦闘。有り難いことに土居町にも旧道の脇道があり、これが遍路道となっていた。楽しき哉、旧街道!午後2時30分番外霊場延命寺、別称いざり松を打つ。歩き遍路に限り納経料300円はお接待してくださった。

7.今夜の宿の蔦廼家は此処より5分ほどのところ。JR伊予土居駅の近く。この旅館は料理屋として昭和8年創業の由緒ある料理旅館だそうで、およそ乞食遍路には不似合いな宿であったが、ほかにこの辺りには宿がないためやむを得ない。同じ理由で歩き遍路もよく利用するそうだ。今は2階を洋風ホテルスタイルに改装して料理と宿泊兼営との事である。夕食は一般客用の食堂で外来客と同席。瀬戸では蝦蛄(しゃこ)が名物と岡山生まれの家内からよく聞かされていたが、なるほど蝦蛄の甘煮は圧巻であった。舟盛刺身、貝の吸い物などすべて瀬戸内の海の幸尽くし、これで一泊二食6963円也。

8.隣の席で一人晩酌の品の良い老人(後で74歳とわかる)が小生に話しかけてきた。話しているうちに小生が横浜からの遍路とわかり、彼も相鉄沿線の和泉区から来たと名乗る。ぼそぼそと身の上話を語るこの老人によれば、土居町は彼の生まれ故郷でこの旅館の先代の主人とは中学の同窓でその誼で此処に宿泊している。老妻には3年前に死別、たった一人きりの娘には去年先立たれ今は逆縁の悲運に沈んでいる。天涯孤独の身となった今、望郷の思いやみ難く余生を生まれ故郷で過ごすべく昭和12年に当地を離れて以来の再訪となったが、既に今浦島にして故郷の面影はもとより友人、知人も探し当らない。不運、不幸をかこつ一人ぼっちの老人の悲哀。なんともやり切れぬ憂き世の無情が身に染みて悲しい。慰める言葉もなく、互いに明日の健康と無事を祈り合って席を立つ。