遍路紀行 5日目 (1997年3月1日) 小雨、午後より晴れ 

行程

18番門前民宿ちば~19番立江寺小松島市立江町)~20番鶴林寺勝浦郡勝浦町)~21番太龍寺阿南市加茂町)~民宿龍山荘(同) 歩行距離28キロ(延べ130キロ)

この日の出来事など

1.朝7時15分、民宿ちば出発。今日は遍路転がしを行くので、人家、食堂のあるようなところは通るまいと思って女将さんに弁当の用意頼んでおいたこと正解であった。ついでに、自宅への写真フイルム郵送も頼む。迷惑かけて悪かったかなと気づくが後の祭り。郵送料は十分渡したつもりでも、郵便局が遠いかも。これからは、通りすがりの郵便局までリュックに入れて持っていこう。

2.郵便局と言えば、いかに山深くとも人里あるところには何は無くとも、簡易郵便局は必ずあった。大方は郵便局長さん一人だけの営業だが、郵便局に口座を設けキャッシュカードを持っていれば遍路にとりこれほど便利なものは無い。山奥で現金化できる。現金を大金で持つ必要なく気楽で安全。都市銀行のカードは遍路には無用の長物である。都銀の出先支店があるのは四国では県庁所在地か一部の都市のみである。郵政民営化論争で郵便局の全国つづ浦々での郵貯サービス提供の現状を力説していた大臣がいたが、その限りにおいては正しい。

3.午前8時、19番立江寺打つ。町寺である。遍路は小生だけであるが、早朝から近所の善男善女で寺は大変な賑わいである。本堂、大師堂の仏前で納経するでもなく、ただ無言で長い時間の合掌。大師への帰依篤き四国の人々。幼少の頃、祖母に手を引かれて大阪寺町の寺々を毎月21日に大師参りした想い出と重なる。さて、立江寺近くの遍路道の傍らに同寺所縁のお京塚があった。ガイドブックから引用する。「享和3年-1803年ーの事。石州(島根県)浜田のお京という女が立江寺に詣でた時にその黒髪が突然逆立ち,鉦の緒に絡みつき離れなくなるという事件が起きた。お京は郷里で夫の容助を殺し、密通相手の長蔵と駆け落ちして心中しようとして果たせず、遍路に出たのであった。突然の出来事に驚いたお京は仏罰の恐ろしさを知って懺悔したところ、髪の毛は頭の肉もろとも離れたという。その時の髪の毛付きの鉦の緒が本堂に置かれている。立江寺は八十八ヶ所に4ヶ所ある関所寺の一つで,邪心のある者は必ず関所寺で見破られて罰を受ける」。

4.20番鶴林寺へは急峻な遍路転がしが待っている。急坂の小道であるが、最初のうちは簡易舗装されている。周りはすべて蜜柑畑なので農作業と収穫時の搬送のためには軽トラックが欠かせまい。そのための舗装であろう。一見場違いに見えるが。手を延ばせば見事に生った蜜柑が好きなだけ手に飛び込んでくる。遍路は盗まず。大師の戒めである。高度を徐々に稼いでゆく。今歩いてきた立江寺の人里が眼下に収まって見える。11時20分、20番鶴林寺打つ。標高570メートル.依然雨激しい。参拝人われ一人なり。

5.参拝に先立ち、手を洗い、口を漱ぐのが礼法であるが、山寺の場合漱ぎ場の水が涸れたままで放置されていることが多い。町寺も水道設備も整備されているであろうに、満足な手洗い場や手水鉢の用意が無い寺も多い。これをなんと見るべきか。

6.21番太龍寺へは一旦標高570メートルの鶴林寺を下り、再び太龍嶽600メートルまで登らねばならない。途中、山中に八幡神社という社あり。ここで用意の弁当で昼食休憩。雨はやんでいるが、光もささず、おまけに風強いので汗をかいた身体が急速に冷えてゆく。休む気分にもならず、おいしいお握り食べ終わるや慌てて歩き出す。直ぐ水井橋という橋に着く。徳島県の大河の一つの那賀川源流にかかる大橋である。太龍嶽へはこれを渡る。渓谷を吹き抜ける風は冷たく、狂風だ。菅笠どころか身体ごと吹き飛ばされる恐怖。眼下の河原まで何十メートルだろうか。渡り切ると再び急坂の悪路。草茫々の夏ならば果たして道とわかるかどうか。けだもの道かと間違えるかも。行く手を立ちはだかるような山が左前方に見える。どうやらあの山によじ登らねばならぬようだ。

7.午後2時、21番太龍寺打つ。太龍嶽の風ますます強く、庭掃除中の老人もこんな強風は珍しいという。この寺は大師の若き日の修行聖跡である。さすがに名刹。600メートルもある険しい山上に広大な境内。壮麗壮大な堂塔、結構な庭園、スケールが大きい。

 太龍嶽より下山の頃から陽が射し始める。暖かい。道はいつの間にか舗装路になっている。自動車も人も影形も無いが、急な下りは大好きだ。ふと気が付けば道路に影が。いつまでも仲良くついてくる。同行二人とはこの事か。道に映るは我が影か、お大師さんか。

8.午後3時、今夜の宿泊先の龍山荘に着く。山中の一軒家。家人の応答が無い。代わりに、またもや犬である。猛烈に吠えられて玄関に近づけない。暫く山々に囲まれた風景を楽しむ。玄関が自動ドアーであったのには驚いた。風呂は広々として気持ち良し。またマメの手入れである。丁寧に皺が寄らぬようテーピングして出発するのだが、30キロも歩くとテープも崩れ皺が出来、摩擦で水膨れが悪化する。皮が剝けると厄介だ。化膿しやすくなる。人によっては歩き2日目位から足裏一面に水膨れができるそうだ。これでは歩けない。手術あるのみ。遍路どころではなく、家族が迎えに来るケースもある由。それに比べれば事前の訓練のお陰か、小生の被害は軽い。間もなく水膨れの部分の皮膚はコチンコチンの分厚い皮に固まるだろう。つらの皮で無く足の皮が厚くなった分だけ重装甲される。

9.深山の宿。同宿二組。いずれもマイカーのお遍路さん達だ。松山より来たという50代後半の夫婦と、老母を連れた夫婦。矢張り四国の人らしい。6人で食卓を囲む。皆控えめで、静かな人たちだ。食後、友人に近況短信第一報の葉書を書く。気が付けば12時。慌てて就寝。この民宿一泊二食6400円。

10.ところで、遍路という祈りの旅の道場である四国が四つの道場に区分されていることは昨日の紀行文中で指摘済みであるが、歩いてみると、誰がこれをお考えになったか、実によく四国の風土も吟味した上で仏祖釈迦の生涯を歩きながら体得できる組み立てに仕立てていると思うのは小生だけであろうか。

 釈迦は釈迦族の国王の王子として生まれ、美しい妻や子供に囲まれてなに不自由ない青年時代を送ったが、29歳にして人生は生老病死、無常にして苦なりと悟り、これらからの救済解脱を求むべく、嘆き悲しむ家族と別れて家を出た。。即ち、出家である。煩悩に苦しむ衆生を救いたいという思いが釈迦の心に生まれたとき、これが発心である。小生を含め遍路に出ようとする人はなにかの囚われから解放され、心に僅かの平安を求めたいがための遍路行であろう。発心である。阿波発心の道場は高みへ到る足慣らしの場であろうか。210キロ、28ヶ寺は、ねを上げギブアップしてしまうか、いやこれなら頑張れるぞという試しの道場であろう。従って、まず平坦で楽な遍路道を歩かせ、遍路転がしの苦難も与えて遍路を試験する。これを通過すれば、いよいよ釈迦も歩んだ苦難修行を我も味わう土佐修行の道場に入る。土佐は24番から39番まで僅か16ヶ寺にも拘わらず距離は408キロ。次の寺にたどり着くのに100キロ近くひたすら歩かねばならない事もある。阿波と異なり優しく遍路を遇してくれない。荒々しい山野海岸、苦闘の毎日である。発心道場を通過できたからこその厳しい修行に耐えうる道場なのである。そういえば、土佐人の印象もよく似ていないか。トサッポという表現があるかと思うが、明治維新の竜馬や半平太の男臭さがなんとなく土佐の修行の遍路道と重なるという比喩は妥当だろうか。釈迦も悟りを求めてまずは己が身を苦行修行に投じた。しかしいかに己が身を痛めても解脱の知恵を得るどころか、身体は衰弱し、絶望のみが強まる。釈迦はここで発想の転換をしたのではないかと思う。SOUND MIND IN SOUND BODY。健全な身体あってこそ、確りした叡智が生まれる。伊予菩提の道場は荒々しさから脱却し、穏やかな心と身体で真理の悟りにあと一歩に迫る菩薩の歩む道場である。穏やかと言えば、伊予の人も総じてそうかもしれぬ。漱石の”坊ちゃん”に登場する松山中学の悪童達の土地訛りが何となく剽軽で穏やかで,おかしさがあって憎めない。「それは蝗ゾナモシ云々ーー」。そして讃岐は真理を大悟した覚者が歩む究極の理想の境地、即ち涅槃の道場なのである。システム設計の妙に脱帽である。合掌。