遍路紀行 24日目 (1997年3月20日) 曇り

行程

内子の新町荘旅館~上浮穴郡久万町のプチペンション.ガーデンタイムまで

歩行距離 40キロ (延べ761キロ)

この日の出来事など

1.午前8時旅館出発。56号線を20分ほど松山方面へ歩く。内子町を流れる狩野川とこれより遡行してゆく小田川の合流点に架かる内子橋を渡って、ようやく56号線と別れ国道379号線に入る。小田川を右に見ながら遡行して山間に入ってゆく。382メートルの長岡山トンネルは幅も広く段差のある歩道もあって安心。9時15分和田トンネル(190メートル)を過ぎる。大瀬という集落を379号線は縫うように走る。小学校、郵便局、タクシー営業所、商店が道沿いに並んでいる。大瀬は桃の産地で知られている由。周囲の風景に見合うこの里の呼称は”桃源郷”を措いてほかにない。

2.10時45分、突合分岐に到る。山は深い。ここで内子町から上浮穴郡小田町突合に入る。44番の在る久万町は隣町であるが、言うは簡単。そこまで行くのに険しい山々の山越えが手ぐすね引いて待ち受けている。久万へはこの突合分岐で2ルートに分かれる。国道380号線を選んで新真弓トンネルから久万へ直行するか、国道379号線をそのまま辿って過疎の広田村を経由して560メートルの下坂場峠と790メートルのひわ田峠を越えて行くかの2ルートだ。伝統的遍路古道のひわ田峠越えにする。

3.突合分岐からの379号線は山峡を行く道路だが快適なドライブウエーである。おそらく地元出身の代議士先生たちの与力に与ったものか。車も人も皆無。この道の行く先は愛媛県下でも有名な過疎の地の広田村だ。以前、NHKテレビが報道していたので覚えている。生活道路にしてはあまりにも豪華に整備された国道だ。広田村で379号線と別れ、県道42号線に入る。12時半、臼杵部落集会所前通過。人の気配は無いが、菜の花が勿体ないほど贅沢に咲く山郷だ。

4.ここで県道42号線とも別れ辛うじて車が通れる細い山道に入る。いつの間にか獣道のような悪路になって、午後1時下坂場峠登り口に着く。ここで昼食。旅館用意のお握り弁当を頬張る。雨がかかるので、木の下で立ち食いだ。1時10分峠越え開始。遍路転がしの始まり。急坂直登して県道42号線に再び合流。1時25分なり。小田町/久万町の境界標識あり。既に下坂場峠なのか、ここは?そうとすればあまりに呆気なき登坂。

5.緩やかな下りの県道を進む。葛城神社という社を通過。ここで左折。午後1時40分、ひわ田峠まで2.1キロと表示のある峠登り口に着く。ダンジリ岩を経て午後2時15分峠到着。ここに久万町役場まで2.8キロの道標あり。もうすぐだ。意外に雨中であるにかかわらず順調な行程だったと喜んだのは誤りであった。悪路が雨で更に悪路と化す。泥沼に岩石。上るも下るも危険極まりなし。必死。お大師さんの金剛杖だけが頼りである。展望がパッとひらけて久万町の全容が眼下に収まって見える。40キロ近い歩きの成果か。久万町は標高550メートルの高地にある盆地で、四国の軽井沢と呼ばれるリゾート保養地である。もうそこだ!

6.午後3時、ガーデンタイムに着く。久万町の中心街は高知/松山を結ぶ国道33号線が縦貫しているが、この辺りは産業道路と言うより観光道路の印象強い。片側2車線にも拘わらず車の通行量極めて少ない。4車線の沿道に洒落たホテルや土産店が並んでいる。どこかおっとり、のんびりした風情が漂っている。信州のリゾート地に匹敵する四国の高原保養地である。高原のため周囲に山が無く道路の道幅も広いので何かモダーンな風合いを醸し出している。今日のような雨天の午後でも何故か空気が澄明に感じる。ガーデンタイムも瀟洒なプチホテルであった。

7.遍路行程上ここで二泊する。素泊まり2日で13040円。食事は朝夕食堂でできる。暖炉の薪木が盛んに燃える食堂はついに2日間朝夕ともに小生一人だけの貸し切りであった。平日はこんなものかも。小生にとっては大変心落ち着く時をもてた。ホテル裏で洗濯機を使っていたら脇で女性従業員たちが暖炉用の薪を手斧で割っている。年甲斐もなく私にもやらせてと手に唾していざ挑戦してみたが、見事に失敗歯が立たず。テレビのドラマでは簡単に割っているが、実際にはそんなものではない。夕食にホテル特製のカレー980円を食す。30センチx40センチ位の大皿にビーフカレーと180グラムの久万牛ステーキを盛りつけたもの。あまりに美味であったので、翌晩も同じものを注文したら、フロントの女性が余程お気に召しましたかと話しかけてきた。明るさを絞った室内照明の下で暖炉の燃え盛る火が辺りを照らす。かすかに流れるムードミュージック。人は我一人のみ。静かなり。遍路という通常の印象から見れば不似合いのムードである。お大師さん、今日明日と都会風にかぶく遍路をどうぞお目こぼしください。

 

遍路紀行 23日目 (1997年3月19日) 雨のち曇り

行程 

宇和パークビジネスホテル~大洲市十夜ヶ橋別格霊場経由~喜多郡内子町の新町荘旅館まで  歩行距離31キロ  (延べ721キロ)

この日の出来事など

1.上浮穴郡久万町の44番大宝寺まで67キロ。今日は途中の内子町までの31キロ。7時20分出発。素泊まりのため昨日買っておいたアンパンと牛乳を部屋で食して出発だ。大雨である。このような日に限って国道歩きになる。一日中56号線だ。土砂降り。車の飛沫。体の芯までずぶ濡れだ。直ぐ空腹を覚える。アンパンだけでは無理もない。うまい具合に喫茶店があった。周りは山中、人家一軒もない樹林帯にポツンと一軒、しかも喫茶店とはついている。ずぶ濡れの防水着、菅笠、リュックカバーなど赤々と燃える暖炉で乾かす。モーニングサービスのコーヒーとトーストパンで人心地着く。500円。再び雨中へ。途中、地蔵堂あり。緊急避難。時代劇そのままの地蔵小屋だ。遍路が行き暮れた時、野宿代わりにせめて雨露をしのげるようにという昔からの地元の人たちの暖かい接待心か。今は雨宿りの旅人が一人。周りは蜜雲、豪雨。昼なお暗き杉林。ただ、地蔵小屋を震わせてエンジン全開で国道を上ってゆく大型自動車の騒音が時代劇の主役擬きの遍路の夢想を打ち壊す。

2.9時10分。鳥坂トンネル入り口に達する、1117メートル。10分少々で通過。歩道は無いが片側2車線あるので余裕で歩く。トンネル中央付近には照明なく、車の切れ目には漆黒の闇と化す。トンネルを抜ければ大洲市であった。本降りの中、市内目抜き通りを行く。古いビルが多い。56号線に沿って市役所、消防署、銀行、商店などが並んでいるが、大雨の為薄暗く陰気な印象が強い。また自動車の大渋滞もあって、元六万石の古き良き城下町の面影はかけらも感じられなかった。市街中心地を肱川が流れている。56号線の肱川橋を渡る。橋近くの左右両岸に鵜飼屋形船がビッシリ係留されていた。いささか心が和む。

3.11時半,十夜ヶ橋別格霊場を打つ。雨を避けて本堂軒下の階段をお借りして用意のアンパンを食す。十夜ヶ橋は大師ご聖跡である。一夜、この橋の下で野宿された大師が余りの寒さに一夜を十夜にも長く感じられたという故事による。今もここで野宿する敬虔な遍路も多いそうだ。現在のコンクリート製の橋の真下には、言い伝えに倣って横になられて眠る石造りの大師像が祀られているが、大師に布団をお掛けする信者がいる一方ですぐその布団を篤い信仰心から持ち去る者もあとが絶えない由。別格番外霊場の中でもここは最高別格の聖跡である。そしてお大師さんが橋下で野宿された故事が敷衍されて、橋下の大師の眠りを妨げぬよう遍路道のすべての橋の上では遍路は杖を突いて歩いてはならない戒めが生まれた。十夜ヶ橋は国道56号線上の肱川の支流に架かる短い橋である。

4.十夜ヶ橋から直ぐ内子町寄りのところに御殿風の民芸調うどん屋を見つける。昼の時間帯だからほぼ満席であったが、雨に濡れた遍路を嫌な顔もせず、席をずらして座れる場所をみんなでつくってくれる。うどん雑炊650円。うどんと雑炊を鍋焼き用の鍋でごった煮にしたもの。どう見ても二人前の分量だ。鶏肉、椎茸、玉子、蒲鉾、野菜いろいろ。

5.宇和島、大洲,内子、を経由して松山まで伸びる内子線につかず離れず国道56号線は内子へ進む。十夜ヶ橋より3キロ程歩いた喜多山駅近くの国道右手に500メートル位の高さだろうか、垂れこめた雨雲の裂け目から突兀たる小富士がニョッキと現れた。周りは妨げるもの何もない平らかな大地。威圧されそうだ。神南山と言うとの事。良き哉、良き哉。良い名前だ。偉容にして雄大。一瞬の後、密雲の中に雲隠れ。

 国道は一寸した峠にかかる。この辺り五十崎町₍イカサキ〉という。峠の茶屋で伊予柑友人達へ送る手配する。峠を下れば内子町であった。午後2時過ぎ、新町荘旅館に着く。日観連加盟の古風でしっとりとした情緒溢れる旅館。女中さんが布団を敷いてくれたり、夕食、朝食ともに付ききりで給仕してくれる。普通の旅なら当たり前の事が遍路の身では贅沢の極みだ。夕食は一汁七菜、一泊二食8850円。夕食前に市内の散歩をする。大江健三郎氏の故郷である。四国の小京都である。旅館の近くに内子座がひっそりとたっていた。観光客一人もいない。心行くまであたりを散策する。内子座は讃岐琴平の金丸座と並んで四国双璧の芝居小屋である。

 

 

 

 

 

遍路紀行 22日目 (1997年3月18日) 晴れ

行程

宇和島リージェントホテル~41番龍光寺(北宇和郡三間町)~42番佛木寺(同)~43番明石寺(東宇和郡宇和町)~宇和パークビジネスホテル(同)

歩行距離 28キロ (延べ690キロ)

この日の出来事など

1.朝7時20分宇和島市のホテル出発。早朝のアーケード大商店街を抜け、JR宇和島駅を左手にみて国道56号線を北宇和島駅方面に向かう。宇和島市中心部は大都会である。案の定右折左折の目標がわかりにくい。町を外れたところで北宇和島駅通過。この駅は松山~宇和島を結ぶ予讃線と土佐窪川宇和島を結ぶ予土線の合流・分岐駅だ。同駅前で56号線と別れ右折して県道57号を行く。光満川と予土線を絶えず右手まじかに眺めながら直登坂の車道を行く。通りかかった工場内から20代の青年が駆け寄ってきて缶コーヒーのお接待をいただく。老人だけではなかった。お接待をいただくのは。心があったまる。8時20分、梅林口なるバス停通過。光満川と同じ光満という集落を過ぎれば北宇和郡三間町域に入る。良い思い出をくれた宇和島市とこれでお別れだ。

2.午前9時、41番龍光寺打つ。納経所の僧侶の顔の険しいこと。悲しい。僧侶が守らねばならぬ戒律の一つに布施がある.。和顔施の教えを彼が知らぬ筈はあるまい。にこにこ顔。穏やか、和やかな顔。一言の会話も無し。有難うございましたの言葉を残して去る。

3.42番仏木寺も41番と同じ町内で3キロ弱と近い。午前10時、42番打ち終わる。納経所の僧侶に43番への道を尋ねる。「ご苦労さん。気をつけてな」。

4.43番明石寺へは遍路古道の山登りである。歯長峠越えだ。10時45分上ぼり口に着く。11時過ぎ県道らしき車道を横切る。県道の視界の先にトンネルが見える。422メートルの歯長トンネルであろう。道路脇の遍路道標に添え書きがある。「楽をとるか、苦をとるか、己の胸先三寸」。高さ450メートルの峠越えか、トンネルを行くか。峠越えは75度傾斜の急坂らしい。この遍路あてのメッセージはいささか遍路を揶揄気味で愉快ではない。それでは楽を有り難く頂戴いたします。トンネル4分で通過。東宇和郡宇和町に入る。歯長トンネルは狭く、当然歩道は無い。幸い、通行車無く怖い思いをせずに済む。

5.トンネルを出ると自動車道は九十九曲がりのように右に左にクネクネとカーブしながら下ってゆく。反対に遍路古道は転がるような下り坂で、自動車道を一直線に串刺しして山を下る。ゆえに、頻繁に自動車道にぶつかり横切る。距離は短縮できるが、とにかく坂の傾斜がすごい。滑り台である。ズボンがこんなに泥んこになったのは初めての経験だ。宇和川を渡る。橋は歯長橋である。渡れば県道29号に突き当たる。歯長峠口バス停がある。これより宇和川に沿い緩い下りの県道を行く。宇和町は葡萄の産地か、直売所が県道の至る所にある。

6.午後12時40分、43番近くで常楽苑といううどん屋さんを見つける。”大師うどん”大盛を頼んだら、小生の顔がスッポリ収まりそうなお化け丼が運ばれてきて目を剥いた。わかめ,椎茸、茹で卵2個、色とりどりの蒲鉾で溢れんばかりの丼からうどんが湯気を立てている。大満足。600円。山門までこれも600メートルの急坂を一気に登り詰める。午後1時20分、43番明石寺打つ。

7.再び国道56号線に乗る。途中宇和町卯之町で伊予の有名な饅頭店である山田屋本店前を通る。本店がここに在るとは知らなかった。東海道線藤沢駅前の小田急百貨店に出店していて、贈り物にしたり自分で食したり、大好物の饅頭である。民芸、お茶屋風の上品な店構えで、何となく遍路に不似合いの感があったが、我慢できず飛び込む。甘みを抑えた淡い小豆色の薄皮一口饅頭。床几に腰かけて三個立て続けに食す。どうぞと出されたお煎茶がおいしかった。午後2時半、宇和パークビジネスホテルに着く。国道正面は食堂と土産売り場。ホテル部は国道裏側に事務所があった。ホテル内部は広すぎて廊下は迷路である。素泊まり一泊5000円。

 

 

遍路紀行 21日目 (1997年3月17日) 晴れ

行程

観自在寺門前きのくにや旅館~宇和島市丸の内宇和島リージェントホテルまで

歩行距離 37キロ(延べ662キロ)

この日の出来事など

1.北宇和郡三間町の41番龍光寺はここより48キロ。足掛け2日の行程だ。午前7時前旅館出発。快晴、気分爽快、さあ今日も40キロ近く歩きぬけるように!56号線は山間部へ緩やかな長い長い一直線の登坂路となって伸びている。地図によればこの辺りを八百坂と呼ぶ。今は国道が遍路道となっているが、八百坂とは遍路古道の名残の古称であるようだ。残念だが古道の面影どこにも見られず。途中、人影皆無の八百坂を珍しく一人で歩き上ってゆく老婆を追い越す。声を掛けたら本当に驚いた顔つきで、こちらが恐縮。土地の人だから経験上こんなところを他人が歩いているとは思いもよらなかったのであろう。それほどにこの辺りは自動車の世界である。「お接待や」と言って飴玉数個いただく。

2 .8時15分、御荘町室手を通る。ここが登り坂の最頂地点で、国道の両側は山を削り取ったような 切通風の峠になっている。峠から下りになるや,眼下にパッと宇和の海が飛び込んできた。室手海岸、初めて見る伊予の海である。御荘町はここで終わり、これより南宇和郡内海村柏に入る。波音も優雅な室手海岸は土佐の海とは佇まいも違って、これこそ紛れもない伊予の国の海であった。

3.9時10分、柏郵便局前を通る。撮影済みフィルムと先日故障した腕時計を自宅へ送り返す。局員7~8名、みんな明るく親切だ。お茶をいただく。頑張ってと多くの声援に見送られ、郵便局前で56号線と別れ柏坂越えの小道に入ってゆく。暫くは人家が続く。道も緩やかな登りである。しかし前方に壁のように立ちはだかる山が待ち構えている。楽もあと僅かである。9時半、柏坂登り口着。ここより柏峠を越えて再び国道56号線と合流する大門という人里まで7.5キロ、所要約3時間との案内板あり。平地なら1時間15分程の距離だが苦闘約2時間を費やし山からストンと落ちる感覚で国道56号線の大門バス停に着いた。柏峠の最高点は450メートル。直登、急坂の人一人がやっと通れる遍路古道を塞ぐ岩石、倒木と格闘する2時間であった。

4.大門バス停は既に北宇和郡の津島町域にある。バス停前に茶店あり。缶入り甘酒を一気に飲み干す。実においしかった。如何に体が疲れていたかの証明であろう。11時半、鴨田という村落通過。既に56号線は平坦な自動車道であるが、津島市街まで1時間を要した。この間、56号線の沿道は白蓮、椿が延々数キロにわたり咲き乱れ、白と赤の競い合いに心奪われるひと時であった。特に白蓮は路傍にも人家の庭にも至る所で満開の饗宴であった。

5.伊予の犬もよく吠える。柏坂より下りの山峡の村落では、放し飼いか野犬か雑種の中型犬3匹、牙を剥いてひつこく小生を追ってくる。実は峠を下る途中の山の中腹辺りから下の山里で犬がほえているのは分かっていたが、何のことは無い、遥かに小生の気配を麓で感じ取って小生に向かって早く下りてこいとばかりに騒いでいたようだ。止める人は誰もいない。無人の里か。それだけに、なかなか引き下がらない。手持ちの飴や菓子を撒いて騙そうとしても匂いをかいただけで迫ってくる。幸い襲われずに済んだが、金剛杖で戦う覚悟を一度は決めた。とにかく、犬、蝮、トンネルは遍路の難敵だ。体験で判ったことだが、犬にまとわりつかれたら恐れず、無視して振り向かず、大地を闊歩することだ。犬にも縄張りがあるのか、いずれは諦めて遠吠えで終わる。

6.12時20分、56号線は水満々とたたえる大河のごとき岩松川を渡る。津島大橋である。津島町の中心街に入る。右に岩松川、左に町役場、郵便局、学校、商店、旅館などがポツン、ポツンと間をおいて並んでいる。この町は獅子文六の戦後の疎開先で、ここを舞台に小説”てんやわんや”を発表している。川に沿って見事な大木ばかりの桜並木が続いている。

7.午後1時前、国道56号線中最長の松尾トンネルに到る。とんねる脇に”ジュテーム”というフランスケーキ店があった。豪華なシュークリーム2個立ち食い。この店は今夜宿泊の宇和島ビジネスホテルの社長の持ち店の由。寂しい山中のケーキ店は去る11日の37番寺への途中の”ナポレオン”に次いで二軒目だ。

 さて、松尾トンネル。1710メートル。出入り口両端でカーブしているので、先が見えない。閉所恐怖症の遍路には疫病神だろう。1時22分トンネルを出る。17分かかった。段差のある歩道が整備されていて思ったより楽な通過であった。襲い掛かってくるような自動車のタイヤの摩擦音と排気ガスに耐えられれば、山越えよりはるかに楽だ。トンネル中間点で津島市より宇和島市に入る。トンネルを出れば、宇和島市街への長い下り坂であった。

8.午後3時宇和島リージェントホテルにチェックイン。遍路旅初めての洋式ホテルだ。部屋は小さいが、バス、トイレ完備。久しぶりに周りに気を遣わずにすむ解放感を味わう。洗濯衣類を素早く乾燥させるために持参しているヘアドライヤーも、今夜は騒音を気にすることもなく使えた。ついでに蒸れた軍靴まがいの登山靴も思い切り乾燥させる。靴の内部の手入れは長距離歩行の要諦である。ホテルではあるが土地柄遍路も宿泊するのであろう、地下駐車場隅に洗濯機と乾燥機をサービスしてくれている。嬉しい配慮。

 夕食は外で。ホテルの勧めで雑誌、テレビで全国区の鯛料理の丸水(ガンスイ)へ行く。何はおいても鯛めしを注文する。1700円。ちょっと贅沢な散財だが、今夜一夜はおゆるしを。あまりの美味に鯛雑炊を追加注文する。1000円。胃袋に収めたくない。いつまでも舌の上で味わっていたい。鯛めしは活造りの鯛一匹分の刺身を秘伝の卵入り醤油味のたれ汁に投げ込み、汁ごとご飯にぶっかける海賊料理である。まだ5時頃で客も少なく、仲居さん達も暇なのか、破戒遍路を珍しがって体験話を聞きたがる。もてるということは遍路でも悪い気持ちはしない。思わずも饒舌になる。反省。彼女たちの激励を背に表へ出る。外はまだ明るい。ネオン街のど真ん中。春宵一刻値千金。何となくやるせなき春の夕べ也。ホテルは宇和島城公園前。仰げば宇和島城が聳えていた。朝食付き一泊6415円。

 

遍路紀行 20日目 (1997年3月16日) 晴れ

行程

延光寺門前若松旅館~遍路古道松尾峠を越えて愛媛・伊予の国に入り~40番観自在寺愛媛県南宇和郡御荘町〉~観自在寺門前のきのくにや旅館まで

歩行距離 30キロ (延べ625キロ)

この日の出来事など

1.今日から伊予・菩提道場に入る。朝7時、若奥さんの見送りを受けて出発。一路56号線を行く。8時頃松田川を渡り、宿毛市の中心街に入る。日曜早朝の事とて街はまだ眠っている。地図によればすぐに56号線と別れ、松尾峠方面への分岐道に入らねばならないが市街は碁盤の目のように道路が入り組み、分かれ道がわからず迷いに迷う。偶に通りかかる地元の人に尋ねても、驚いたことに松尾峠の存在すら知らない。やっとの事で分かれ道にたどり着く.。このころより小雨模様。

2.9時20分、峠登り口に着く。土佐と伊予を結ぶ街道の要衝であったため、昔ここには番所があった由。幕末の志士たちもここを往来したか。峠まで1.7キロとある。幸いに今は雨も止んでいるが、昨夜の雨で山道の泥濘尋常でなく加えて悪路の急坂の為、滑ったり転んだり大いに難渋する。10時峠に達す。これより愛媛県。詳しくは愛媛県南宇和郡一本松町。伊予宇和島藩の支配地を表す立派な石造りの標柱が完全な形を残して存在を主張している。

3.峠より土佐の国を振り返る。宿毛湾が穏やかに眠っている。太平洋の荒波の洗礼を受ける土佐の猛々しい海と違い、宿毛の海は行政上は土佐高知であっても、その自然は伊予化してどこか女性的である。複雑に入り組む入り江の浦々は春3月の真昼の陽光を浴びて柔らかに輝いていた。峠からは伊予一本松町への急な下りであるが、高知側に比し愛媛側の山道は少し手が加えられており、泥濘に滑ることも無く無事峠を下りた。11時半一本松町のとある公園でお握り弁当を開く。

4.城辺町にはいる。一本松町と同じ南宇和郡である。間もなく僧都川にぶつかり、しばらく川に並行して歩く。人家が次第に目立ち始めてきた。再び国道56号線に合流。城辺橋を渡り僧都川対岸へ。かなり長い橋の中間点で高齢のおばあさんより500円の賽銭お接待をいただく。丁度午後1時半の事。56号線は橋を渡って左折、川に沿って進む。御荘町に着く。午後2時、40番観自在寺を打つ。

5.2時半、40番門前の遍路宿きのくにや投宿。70代の老女将が一人で切り盛りしている。隣部屋は車遍路一組。夕食、朝食とも1階の食堂で全員で食卓を囲む。真鰹の生姜煮、マグロ刺身、キュウリと蟹の酢和え、野菜の煮物、カズノコと多彩な料理であったが、カズノコの中に蛾が混じっていたのでこれはそっと遠慮した。襖一枚隣部屋のぼそぼそ声はいつか鼾に変わる。一泊二食5500円。明日は宇和島だ。

 

遍路紀行 19日目 (1997年3月15日) 晴れのち曇り

行程

土佐清水市久百々の民宿~幡多郡三原村と船ヶ峠を経由して~土佐修行道場最後の札所39番延光寺高知県宿毛市平田町〉~延光寺門前若松旅館まで

歩行距離 34キロ (延べ595キロ)

この日の出来事など

1.午前7時民宿出発。砂をかむような味気ない別れ。宿代支払いの時チラッと姿を見せるがお互い無言。それでも、頼んでおいたお握りは包装紙で丁寧に包んで渡してくれる。7時半、昨日は大雨であった下の加江の集落に着く。ここで13日の四万十川以来の道連れであった321号線と別れ県道21号線に入る。標識に三原方面分岐点とある。これで、10日以上に及ぶ太平洋や土佐湾との同行二人旅は完全に終わり土佐最後の宿毛市を目指し山中に入る。三原村や船ヶ峠を越える山また山の山巡り。下の加江川の源流までたどってゆくのか、右に左に曲がり曲がっても、登り下っても下の加江川の渓谷が離れずついてくる。県道とは言えアスファルト舗装は凸凹で荒れており、車一台通り抜けできるか危うい。県道よりも林道が適切か。山越え中、人はもとより、車一台お目にかからず。深山幽谷の”趣”どころか、まさに深山幽谷である。聞こえるは鶯の囀りのみ。路傍で今朝用意してもらったお弁当を開く。宿には屈折した気持ちがあったが、お握りは具もいっぱいで美味しかった。

2.いつの間にか土佐清水市から幡多郡の三原村に入ったようだ。下の加江川源流の渓谷と鶯はあいかわらずだ。午後は60パーセント雨の予報であったが,なんと快晴だ。しかし、暑い。三原村の芳井部落を過ぎる。猫の額のような山間の大地の上に人家が寄り合っている。突然、猛烈な犬の吠え声に飛び上る。土佐犬ドーベルマンを掛け合わせたような一瞬虎かと見紛う大型犬が小生めがけてとびかかって来た。幸い長いワイヤーに長い鎖を通して繋いであったので、鎖の限度いっぱいのところでストップがかかり大事にはならなかったが、恐怖の棒立ち。声も出ない。更に進む。久繁,宗賀という集落を通る。天満宮の社あり。水道の水が実に甘露であった。トイレもある。鄙びた山村に不似合いなほどに素晴らしくモダーンな建物で、しかも清潔。通行人もいないのだから、使用する人もいないか。ピカピカの社とトイレ。。天満宮参拝。トイレと水道。これほど遍路にとっての喜びは無い。

3.三原村から船ヶ峠を越えれば黒川という集落。ここはもう宿毛市か。整備された道路になって来た。黒川トンネルを通過。トンネルを出たら、視界がパッと開けて巨大なダムサイトが眼前に展開した。黒川ダムサイト公園という。12時50分であった。道路も素晴らしいわけだ。展望休憩停で小休止。この広大な空間に小生一人。勿体ない。

4.ダムから少し下ったら、早くも39番寺のある宿毛市平田町の外れに達する。国道56号線に3日ぶりに対面。四万十の中村市以来の邂逅だ。さすが四国の大動脈なり。車の通行量が半端ではない。久しぶりの下界、俗界も正直楽しいものだ。勝手なものだ。明日は56号線とのお付き合い。よろしく。午後2時、39番延光寺打つ。これで土佐修行道場うち終わりだ。明日より伊予の国の菩提道場に入る。

5.午後2時半、門前の若松旅館投宿。古風な遍路宿の風格。設備は古びているがよく手入れされている。細かい気配りの若夫婦の一生懸命なもてなしが嬉しい。延光寺も若松旅館も田園の中。明るいうちは鳶の鳴き声。日暮れてはなんと蛙の大合唱に包まれて夜は更けてゆく。風呂は下駄を履いて入る五右衛門風呂だ。これにはさすがに驚いた。夜更けて雨だ。今日で歩行距離600キロ近くになり、東京/神戸間を超えた。

 T君より電話あり。彼岸休みを利用して四国・東赤石山登山の予定と。3月22日松山市内でのランデブーを約す。同宿者無し。蛙の合唱を子守歌に,早々と8時就寝。一泊二食5300円。

遍路紀行 18日目 (1997年3月14日) 曇り、のち雨

行程

土佐清水市以布利の民宿旅路~38番金剛福寺土佐清水市足摺岬)~同じ道を打ち戻り久百百₍クモモ)まで   歩行距離 38キロ (延べ561キロ)

この日の出来事など  

1.地響きかと思う波音と地鶏の鳴き声で目を覚ます。朝4時半であった。7時半出発。宿より38番まで片道16キロ、38番打ち終わればUターンして民宿旅路を経由して昨日辿った道を下の加江方面に再び下って7キロ程先の久百々という小さな漁村の民宿に泊まる予定。全コース、土佐清水市内の遍路行。(同じ道を往復することを遍路達は「打ち戻る」というが、今日の行程は100パーセント打戻りである。道に迷うこともゼロ。)   

2.民宿の老奥さん、今は滅多に利用されていない海辺の旧遍路道や以布利漁港の案内を兼ねて30分ほど小生に随伴して見送っていただく.現在は足摺への遍路道が整備されて国道321号線を行けばよいが昔は危険な海辺の道しかなくさぞや難渋したことと思う。漁港を過ぎれば以布利の集落も途切れ、ここより321号線は大きく右にカーブして海岸を離れ、半島の背骨の山深いルートをとって土佐清水市の市街中心部を目指す。足摺岬へ行くには321号線とここで別れ、相変わらず進行左手に太平洋を眺めながら整備された県道を行けばよい。ここで38番を打ち終え39番へ向かう30代位の女性遍路に出会う。遍路行18日目にして初めての歩き遍路との遭遇だ。我が仲間だ。この道は先ほど説明した打戻道であるため遍路とすれ違うこともありうる。彼女は今日で24日目の由。陽に焼けて真っ黒。悪いが近寄らないと男女の区別ができなかった。数分間立ち話して情報交換。彼女は以布利の分岐で321号線に合流の後下の加江ルートをとらず321号線で土佐清水市へ直行し、そこから39番寺のある高知の宿毛市に向かうという。もう出会うこともあるまい。お元気で。

3.岬への県道は時に車すれ違い困難な狭い幅員に変化する。はじめてこの道を運転する者には気を抜けない危険な道路である。窪津とか、津呂とかいう漁村を通る。鰹節の加工工場が多い。独特の臭いが一面立ち込めている。どちらかと言えば悪臭だ。窪津では海岸線に沿ってクネクネと小岬を曲がり走る県道とは別に旧遍路道あり。蹲った馬の背骨のような小高い山塊が海に突き出た小岬を一直線に乗り越えてゆく遍路道だから距離と時間は節約できる。話が逸れるが、四国の遍路道1番から88番までの総距離は公称約1400キロであるが、これは自動車道の事ではないだろうか。歩き遍路道にはこのような古来からの遍路古道が至る所に残っているので、総距離はもっと短いと思う。現に、小生の総歩行距離は遍路地図による計算では1150キロ強であった。

 話をもとに戻す。馬の背骨を乗り越えて再び県道に合流、津呂の集落を過ぎる頃から車一台がやっとの状態となる。県道はいつの間にか椿の大木のトンネル道に化している。頃もよし。3月。椿、椿、椿の花の満艦飾の南国の岬であった。

4.午前10時30分38番金剛副寺打ち終わる。山門前の大駐車場は遍路バスや一般観光バスで大混雑である。.一体このバスの群れはどこから来たか。小生の辿った道は閑散としていたのに。さて、門前の駐車場兼用広場に足摺岬公園入口がある。灯台や断崖絶壁が見物できる。観光客に混じって遍路姿も多い。小生もやっぱり観光もしたい。折角南国の地の果ての秘境まで遥々歩いてきたのだから、我一人超然としてはいられない。白亜の灯台、絶壁、疾風怒濤、椿、円い水平線

5.11時過ぎ、今通ってきたばかりの県道を再び以布利方面へと打ち戻る。 昼食は津呂漁港の県道路傍で民宿旅路の老奥さん心づくしのお握りをいただく。12時半、窪津を過ぎたところで雨激しく降り出す。雨宿りする場所も無く、見えるのは右手に荒磯、左に断崖絶壁、落石注意の看板のみ。路上でリュックから雨具を取り出し激しい雨の中、濡れたままで雨具を着る。完全防水ゆえ通気性が無いため濡れた体が体温で蒸れる。オメガの腕時計が湿気でとまってしまった。疲れが激しい。午後2時20分、前夜の民宿に戻りつく。預けておいた荷物をリュックに詰め直し、老夫婦と別れを惜しみながら、重くなったリュックを担いで高い湿気で不快指数100パーセントの重い体を今夜の宿泊先の久百々の集落へ運ぶ。

6.午後3時半、久百々の民宿に着く。民宿の名は秘す。理由は後で判る。また誰もいない。玄関の前は県道越しに太平洋の怒涛が砕け散る岩礁が広がっている。眺めが素晴らしいので、玄関前にしゃがんで家人の帰りを待つ。やがておじいさんが帰ってきて、海の見える2階の部屋に通される。景色を楽しんでいるうちに女将さんらしい中年の女性も戻ってきた。どうやらおじいさんと小生の部屋の事でもめているらしい。理由もわからないまま、山側の部屋に移される。故障とは知らず部屋のエアコンを操作したのを見咎められて女将さんにガミガミと注意される。実は、昨日の午後以布利の宿への途次、この宿の前を通った序に、「明日おせわになりますと」と挨拶がてらに立ち寄って玄関のインタホーンを押したところ、家人は現れず件の女将さんらしき声でインタホーンを通しての対応で終わってしまっていた。民宿とは言えサービス業の関係者が斯くのごとき応対かと、いささか呆れ嫌な予感を持ったが正夢となってしまった。昨日の小生の対応に何か気に障るところがあったか振り返って考えてみたが、思い当たらない。遍路宿の人たちは皆親切で情け篤き人ばかりと思っていた小生の甘えか。(後日談。何年か後にある評論家の遍路エッセイを偶々読む機会あり。文中、この民宿の,わけても女将さんのもてなしぶりを激賞するくだりを読んで心中複雑な思いがしたが、さらに読み続けたら女将さんの述懐が紹介されていた。彼女によれば民宿経営の知識もななく、また料理も得意でないためこの仕事が嫌いであったが、ある時真心で接しさえすれば相手に通じると気づき、そう悟ったら気も楽になって、女将稼業も楽しくなったと。これで合点がいった。小生がお世話になったころは丁度悩んでいた最中であったか。人間、この不可思議なる存在。)同宿者無し。一泊二食6000円。