遍路紀行 12日目 (1997年3月8日) 快晴 

行程 

旅籠土佐龍~29番国分寺(南国市国分)~30番善楽寺高知市一宮町)~31番竹林寺(同.五台山)~32番禅師峰寺(南国市十市)~33番雪蹊寺高知市長浜)~雪蹊寺門前民宿高知屋まで  歩行距離 37キロ (延べ360キロ)

この日の出来事など 

1.午前7時土佐龍出発。団体遍路さんたちは小生よりも早だちで、小生出発の時は昨夜の喧騒が嘘のごとく静まり返るフロントで支配人から確りと道順を教えてもらう。物部川に架かる長い戸板島橋を渡ると土佐山田町である。この辺りの畑は温室用のビニールハウスで占められ、静かな農道がその間を縫って伸びている。この辺り、目標、目印になるような物何もなく、一寸うっかりすると電柱に貼られている道標代わりの直径4センチ位の円い遍路シールを見落としてしまう。田んぼ道の途中に最近テレビで紹介された善根宿”都築”がポツンとただ一軒立っていた。農家の都築さんが歩き遍路を無料で我が家に宿泊お接待しているもの。陽が高くなるにつれ田んぼの至る所から陽炎がたち始めた。快晴。まだ3月というのに兎に角暑い。汗淋漓。真っ黒い手首が今日で更に黒焼きとなるだろう。

2.8時35分、29番国分寺打つ。10時前、知らぬ間に高知市内に入ったようだ。”はりまや橋7キロ”の標識に気づく。直ぐに30番善楽寺に着く。この寺は高知の一宮神社と神仏混淆で、寺域と社域の境が一寸見には見当がつかない。10時過ぎ30番善楽寺打ち終わる。

3.高知市の繁華街を歩いてはりまや橋や桂浜などの見物もしたかったが、31番竹林寺へのコースから外れて遠回りとなるので見物は敬遠する。右手遥かに高知市街を眺めながら国道32号線バイパスを急ぐ。高知市の郊外ではあるが名物の市電を目撃できて満足。

4.12時、31番竹林寺打つ。この寺は高知市のシンボルとして有名な五台山138メートルの高所にある信仰と観光の名所である。高知市の東、浦戸湾を見下ろす絶景の地で桜,躑躅で名高い。ケーブルカーや車ではアッという間だが、遍路古道の急坂では30分を要した。12時15分下山、32番禅師峰寺へ向かう。竹林寺境内のアイスクリーム売りの娘さんが懇切丁寧に道順を教えてくれる。これより約6キロ。高知市郊外を流れる下田川の堤防が遍路道になっている。延々と続く堤防上の遍路道。海が近いはずだが、ここは緑溢れる田園だ。ひばりが鳴き、鳶も舞う。無風、快晴。時間が止まったような長閑なひと時。携帯電話が鳴る。友人からの激励だ。南国の昼下がりの陽光の下、堤防の土手に座り今の感動を語る。下田川と別れ、田畑の野道や山間の山道など変化に富む風景の中を行く。武市半平太の生家と武市神社が並んでいる。午後2時前,ようやく食堂を見つける。遅い昼食。きつねうどん450円也。

5.32番禅師峰寺も80メートルの小高い丘の上にある。ここは高知市ではなく、29番国分寺と同じ南国市になる。80メートルといえど、長路歩き疲れた遍路にとって急坂の登りは難敵である。一息ついて休んで歩き出すと、また休みたい。一気に登り詰める。突然,八荒山禅師峰寺の山門が急な石段の前方に見えた。午後2時10分、32番禅師峰寺打ち終わる。大師堂の大師像は土佐湾の桂浜を見下ろしておられた。

6.午後3時55分、種崎渡船場に着く。禅師峰寺より渡船場までの一時間半は西日を真正面に浴び、それを避ける日陰もない一直線の単調極まる町中の道路で、疲れが倍加する。漸く着いたここの渡し船は昔より遍路道として許容されており、全遍路行程の中で唯一つ認められた乗り物である。渡し船とは言っても今は乗用車5,6台収容可能の小型フェリーである。県営、無料。午後4時15分発。所要5分。左手に浦戸大橋が迫って見える。船からは見えぬが更にその向こうに桂浜がある。かくてアッという間に浦戸湾を横切り対岸の長浜待合乗り合い所に着く。

7.午後4時半、33番雪蹊寺打つ。町寺。この寺は臨済宗。八十八ヶ所中禅宗は11番藤井寺と合わせて二ヶ寺のみ。ここの住職は納経帖の墨や朱を乾かすのに決してヘアドライヤーを使わせないと聞いていたが,偶々団体遍路の人たちにそのことで注意している現場を目撃した。殆どの納経所にはヘアドライヤーが常備されていて、納経帖に記帳後の墨や朱の湿りを乾燥させるためにそれを使えるように便宜を図っている。湿りをよく吸収する和紙か新聞紙を遍路の心がけとして用意して墨書した部分に挟めば隣の白紙の紙面には写らない。納経所の隅でガーガー騒音をたてて乾燥させているおおよそ札所らしくない無粋な慣行は多くの札所で流行しているようである。

8.雪蹊寺門前の民宿高知屋に投宿。見た目には変哲もない表構えであるが,あるじである中年の美しい女将の親切なおもてなしが心に沁みた。洗濯は小生にさせず、洗濯物を取り上げられてしまった。一切お任せ。夕食は豪勢!豪快な鰹のたたき。これだけでも食べきれない。大蛤の澄まし汁。車海老,小芋,南瓜の甘煮。野菜の和え物。化け物まがいの大粒苺のデザート。銀座千疋屋の苺もかくやと思はれるおいしさ。全て部屋まで運び込まれ、食事終わるまで遍路のよもやま話をしながらのお給仕。朝食も手の込んだ献立で、朝早くからの食事支度だろうと素人でもわかる。出発時には、玄関の上がり框に腰かけて靴を履く小生の為に,わざわざ座布団が置かれていた。頼みもしていないのに、お握り弁当を手渡される。これでなんと一泊二食5000円。心から合掌。おもてなしに対する遍路の返礼は納経札を渡すこと。納経札には住所、氏名、年齢を記す。本堂、大師堂で納経に先立って、遍路札を納札箱に入れる。その小生の札を見て、今の今まで小生の事を30代の遍路さんと思っていたという。複雑な心境也。慈母のような温かさに溢れる数々の接待に癒され,去りがたい思いで女将さんに合掌長浜を後にする。姿が小さくなるまで手を振る女将さんと遍路。

 

 

 

遍路紀行 11日目 (1997年3月7日) 快晴

行程

浜吉屋旅館~28番大日寺(香美郡野市町)~大日寺門前の旅籠土佐龍まで

歩行距離 35キロ (延べ323キロ)

この日の出来事など

1.南国土佐の雨は凄まじい。未明バケツをひっくり返したような豪雨の音に目が覚める。明ければ今朝の爽やかな青空。初夏の日差しだ。7時10分老奥さんに見送られて出発。8時安芸市域に入り大山岬に到る。ここは安芸市郊外の景勝地で、砂浜の輝きはひと際鮮やかだ。死語にになったと思っていた”白砂青松”という言葉が突如蘇る。安芸市は童謡と縁の深い町とか。因みに”浜千鳥”が作詞された舞台がこの浜辺だそうである。海辺の公園には坂本竜馬の妻のお竜さんと妹の銅像がたっていた。

2.9時15分、安芸市市役所前を通る。さすがに安芸市高知県下でも高知市に次ぐ都会だけはある。広い国道に沿ってビル街が延びている。「阪神タイガースがんばれ」の幟が市役所の壁に架かっている。ここはタイガースの例年のキャンプ地である。タイガース歓迎の看板,幟はいたるところにある。町を挙げての応援か。中心街から少し離れたところに坂本竜馬の友であり又小生現役時の勤務先の始祖である岩崎弥太郎生家の標識を見つけたが、急ぐので素通りした。

3.市街のはずれで50代の男性から呼び止められ励ましを受ける。今から歩く遍路道の詳しい説明を受ける。説明どうり市内津久茂町で国道55号線から左に折れて海岸線に並行した幅員2メートル位のサイクリングロードに入る。遍路道兼用のこのロードは土佐湾の海浜に沿って安芸市芸西村夜須町を縦貫して香我美町までの総延長12キロの素晴らしい景色に恵まれた人間専用道路である。良い道を教えていただいた。教えてもらっていなければ、浜辺に沿ったこんな歩き冥利に尽きる裏道があると知らずに同じ12キロの道のりではあるが、排気ガスを浴びながら55号線を歩いていただろう。聞けば、このサイクリングロードは土佐鉄道の廃線跡を再利用したものだそうで、そういえば昔は列車用のトンネルであったらしい天井の高いトンネルがそのままに残っている。

4.サイクリングロード途中の赤野岬休憩所(安芸市)手前で、どこからか「お遍路さん」と呼ぶ男性の声。今この道に居る人間は小生のみ。誰かと探せば、頭上の跨線橋から先ほどの男性が手を振っている。何んと驚き感激したことには、一時間半前に小生と別れた後に、この人は土佐名物皿鉢料理の折詰を急ぎ用意して自動車で此処まで先行,教えた通りの人間専用道路で小生が通るのを待っていた由。人の情けを超絶した大師の化身か。有り難く、嬉しく目が潤む。土佐湾を背に記念の写真撮る。しかし、何たることか。感激のあまり自分を名乗ることも、お名前をお聞きすることも忘れた小生の迂闊さを恨む。ご無礼のほど何卒おゆるし下さい。

5. 赤野岬を過ぎれば右前方に白亜の高層ビルが見えてくる。土佐有数の高級リゾート土佐ロイヤルホテルとの事。12時、サイクリングロード途中で絶好の昼食休憩場所を見つける。松林に囲まれた芸西村プール休憩所だ。爽やかな海風が松籟を誘っている。土佐湾に直面するプールの階段に腰かけて、いただいたお接待の折詰めを開く。白身魚の握り寿司、バッテラ。食べきれない。他に蒲鉾、白魚が別の容れ物に一杯だ。美味しさもさることながら、土佐の人の優しさに胸が詰まる一刻を過ごす。12時50分、夜須町手結海水浴場を通る。ここで12キロに及ぶ人間専用道路は終わり、再び国道55号線に合流する。70代のおばあさんから100円のお接待をいただく。55号線に沿って香我美町、赤岡町を経て28番大日寺のある野市町に着く。途中、55号線と別れ県道に入る。午後2時50分大日寺を打つ。 

6.午後3時過ぎ門前の旅籠土佐龍投宿。名前が古めかしいところを見ると、昔からの遍路宿であったのかも。しかし現実のこの宿は名前とは裏腹に遍路宿としてはモダーンな鉄筋建築で設備も抜群だ。有料だが全自動洗濯機と乾燥機が10台以上並び、コインランドリー顔負け。風呂は一流温泉の大浴場並みだ。食堂は200席以上と仲居さんが話す。遍路で満席の状態だ。土産売店も大規模。聞けば、バス団体遍路が主客とかで、いくらシーズン外といえども一人遍路をよくぞ泊めてくれたものである。しかもこんな季節外れでも、夕方にはバスが続々到着して小生の宿泊部屋の周囲の部屋も廊下もバス遍路で溢れ騒然としている。周りの部屋は皆一部屋に4,5名か。しかるに同じ規模の小生の部屋には小生一人。宿泊代一人分のみ一泊二食7210円では申し訳なき次第である。そうだから言うわけでは無いが、フロント、食堂、売店の従業員の皆さん本当に素朴で、人擦れしていない対応が心に残っている。大師のお恵みか。

 

遍路紀行 10日目 (1997年3月6日) 快晴

行程

民宿うらしま~27番神峰寺(安芸郡安田町)~神峰寺登山口前の浜吉屋(同)まで

歩行距離 34キロ (延べ288キロ)

この日の出来事など

1.民宿うらしま7時10分出発。快晴。今日も暑くなりそうだ。道は相変わらず国道55号線。迷う心配なく快適に歩ける。足のまめも次第に快方に向かい、両足小指裏の水膨れは乾燥して白く固まってきた。道も安心、足も安心、山登り無し。距離のみ34キロと長いが、何不足ない好日となりそうだ。

2.8時、室戸市の吉良川という古風な軒並みの続く集落に入る。何か埃っぽく活気に乏しそうな感じだ。国道は道路を挟んで向かい合う両側の家の軒並みがぶつからないかと思うほどに狭いが、これでも天下の国道55号線である。炎天下の徳島市内の55号線を知っている小生にとっては信じられぬ変貌ぶりだ。人影少ない路地裏のような国道を車が荒っぽく走ってゆく。9時漸く海岸道路に出る。閉塞された気分から解放される。途中乗用車が止まって乗って下さいと車接待を受けるがこれだけは鄭重にお断りする。石川ナンバー、40代の男性。彼もどうやら車遍路さんらしい。長い海岸道路が続く。幅員の広い立派な歩道が珍しく続いており、危険のない気持ち良き歩きができる。羽根という集落を通る。ここはまだ室戸市域である。室戸阿南海岸国定公園の標識がある羽根岬通過。

3.ほどなく、いよいよ室戸市と別れ安芸郡奈半利町(ナハリ)に入る。55号線は長い海岸道路だ。風景は全く単調で、国道はどこまでも一直線、あたりに島影、入江、岬など疲れと倦怠を救ってくれるもの何一つも無く、土佐湾は無限に広く、照り付ける南国の陽光の下熱砂の浜辺が続く。まだ3月初旬というにも拘わらずである。水筒はすぐ空になる。幸い自販機が各所にある。自販機とコンビニは四国でも人の気配あるところでは不自由しない。

4.11時20分、奈半利川にかかる奈半利大橋を渡り安芸郡田野町に入る。橋畔の食堂で早めの昼食。穴子の蒸し寿司とぬたの和え物600円。なんと美味で、なんと安いことか。再び55号線を行く。奈半利川から田野町の終わる安田川までの55号線は相変わらず飽きもせず土佐湾を左に見て延びる4キロほどの道のりである。正午過ぎ安田川を渡って間もなく27番神峰寺分岐の標識に出くわす。宿は間もなくだ。しかし時間が早すぎる。27番への登山口前にある安田町の浜吉屋旅館に12時半到着。あまりに早い到着の為旅館の老奥さんが驚いて歩いてきたと信じてもらえない。今朝出発した室戸市元からの歩きの場合到着は午後4時頃だという。

5.リュックを奥さんに預けて27番神峰寺へ参る。昨日の26番金剛頂寺への往復と同様のケースだ。標高570メートルの山寺。旅館は土佐湾の浜辺が直ぐ近くだから、掛け値なしにこの高さを登らねばならぬ。名前までが神の居ます峰なのだから険しい山と覚悟して出発する。急坂の遍路道は自動車道兼用だ。急勾配ゆえに畑、田んぼは段々づくりになっている。段々畑は一面蓮華、すみれの絨毯である。急峻な道路沿いの用水路は幅は狭いが豊かな急流となって駆け下る。一歩進めるごとに高度を稼いでゆく。立ち止まり振り返れば眼下に土佐湾の紺青、仰げば紺碧の空、周りを見れば菜の花、梅、桃、蓮華にすみれと総天然色の神峰寺への遍路道である。宿より神峰寺まで片道3キロ半、平地なら30分の距離が1時間を要して午後1時半山門に到る。2時まで境内で遊ぶ。ここの湧水は土佐名水として名高い。汗一杯掻いた人間にはなおの事甘露であった。水筒にも名水を一ぱいいれて旅館への土産にした。復路の下りは毎度のことながら楽だ。跳ぶように駆け下りて2時半には浜吉屋で旅装を解く。

6.この旅館の古色蒼然の雰囲気には驚いた。これまでの遍路宿でだいぶ慣れてはいるのだが、明治か大正時代を描く映画に登場させても違和感は無かろう。廊下も部屋も埃が舞う。老奥さんが一人で切り盛りしているのだから仕方がない。部屋にはテレビどころか机も無い。机の無い日本間は落ち着かない。どこに座ればよいか。夕食は田舎料理風でおふくろの味が思い起こされて懐かしい。老奥さんの一生懸命の労作、もてなし。美味しくいただく。一泊二食6000円。同宿者無し。

7.今日は小生62回目の誕生日。手も顔も日焼け真っ黒で,一寸見には何歳か見分け困難かもしれぬ。特に手の甲が黒く、反対に掌の白さが際立って目立つ。心の中で一人62歳の誕生日を祝い、いくら何でも少し早いが夜7時過ぎ床に就く。

 

 

 

 

遍路紀行 9日目 (1997年3月5日) 快晴

行程

民宿とくます~24番最御崎寺(ホツミサキジ 室戸市室戸岬)~25番津照寺₍シンショウジ 同・室津)~26番金剛頂寺(同・元乙)~金剛頂寺山麓の民宿うらしままで   歩行距離 26キロ (延べ254キロ)

この日の出来事など 

1.室戸は日出ずるところ。民宿とくますの小生の部屋は真東の太平洋に直面し夜明けの日の出は壮観だと教えられていたので、カメラを構えて待つ。朝6時20分、天気晴朗、水平線から昇る荘厳な日の出に我を忘れる。

2.7時半とくます出発。室戸路は既に菜の花満開。南国の春は流石に早い。国道55号線は相変わらず自動車の往来少ない。トラックは滅多に見かけない。歩を進める。ややあって、海上遥か海に寝そべっているような陸影が小さく見えはじめてきた。地図から判断して、あれこそ室戸岬だと確信する。今日は無風、聞こえるは波音と鳶の鳴き声のみ。更に進む。陸影はいよいよ大きく、今や目前に迫る。

3.10時過ぎ、室戸岬に着いた。巨大な弘法大師の立像が待っておられた。国道を海側に下りると室戸岬遊歩道があった。ここには大師ご修業の数々のご聖跡がある。断崖絶壁の山側には御蔵洞と呼ばれる洞窟がある。ここで大師は虚空蔵求聞持法を会得されたと言い伝えられる。室戸では最も聖なる修行場である。奥行き数十メートルの洞の奥から入り口を臨むと海と空とが額縁の中の絵のように浮かんで見える。若き日、空海と名乗られるになった由来とか。

4.10時半、24番最御崎寺登山道口より登り始める。室戸岬の先端は台地状の高地が太平洋に転がり落ちた絶壁で囲まれており、最御崎寺はその台地状の先端にあるので1キロほどの急峻な崖路を登らねばならぬ。勿論いまはジグザグカーブを描いて緩やかに登ってゆく自動車道もあるが、遍路は矢張り昔ながらの危険な遍路古道を行くのが常道であろう。蝮注意の立て札が半分朽ちかけてたっている。10時50分、24番最御崎寺を打つ。室戸岬灯台は境内より海に向かって1分程のところにある。ついに岬に立った。見渡せば太平洋。一望無辺、遮るもの無し。

5.25番津照寺へ向かう。海に対面する町寺ゆえ、室戸の海辺まで下りねばならない。24番への登りは古道の難路であったが、25番への下りは室戸スカイラインという快適な観光ドライブウエーを歩けばよい。緩やかな下りであるが、距離は長い。しかし、歩きながらの展望は抜群。眼下に間もなく通過する室戸の津呂漁港とその先西寄りに25番津照寺のある室津漁港が見える.。 

 津呂の港近くの”レストハウス”という喫茶店でうどん定食の昼食。2階の食堂の大窓から太平洋がドンと眼に飛び込んでくる。豪快。さて、25番津照寺のある室津は土佐の国司であった紀貫之が”土佐日記”に海上交通の要衝として紹介している歴史的にも有名な港であるが、昼下がりの漁港は眠ったように動きが無い。午後1時、津照寺を打つ。納経所の寺男さん、何か怒ったような怖い顔つきで黙々と筆書し、朱印を押している。言葉を掛けたいが、君子危うきに近寄らず。はやばやと納経所を退散する。

6.津照寺の石段からは海がまじかによく見える。海の守り寺として船乗りの信仰が篤い。寺周辺も人の往来が賑やかである。門前の魚屋さんの前で70代の老女に呼び止められる。この遍路行で最初のお賽銭の接待である。100円玉を一つ頭陀袋に入れていただく。通行人の多い町中の路上でのお接待を体験して、托鉢行脚の僧侶の心境とはいかがなものか自問自答。南無大師遍照金剛三度唱え、合掌する。

7.室津と別れ26番金剛頂寺へ。途中、遍路のシンボルである白衣と白ズボンを自宅へ送り返すことにした。この暑さでは厚手のウールシャツの上に白衣を着たのでは汗まみれになるし、ウールシャツを脱いで白衣を上着代わりに歩くのも寒い。白ズボンはすぐに汚れてしまう。実用的でないので、思い切って白装束はやめる事にした。異端とおしかりを受けるやもしれぬが、菅笠、金剛杖、頭陀袋が遍路のしるしだ。通りがかりの洋品店で白ズボン代わりのジーンズを求める。店員の娘さんが最優先でズボン丈の調整、ミシン縫いをしてくれる。店員さん達総出で遍路行が成就するようにと励ましてくれる。ここは歩き遍路銀座の地ではあるが、歩き遍路は珍しいとの事。

8.午後2時20分、室戸市元の民宿うらしまに着く。26番金剛頂寺へは片道2キロの急坂遍路古道を往復して宿に戻ってくればよいので、既に身体の一部分化した10キロのリュックを宿に預けて身軽に金剛頂寺へ向かう。しかし、調子が狂ったのか却って足が重い。喘ぎが激しい。暑さの為なのか。脇横を団体遍路バスがエンジン全開で疲れ切った遍路に排気ガスを浴びせて次々に追い越してゆく。ああ、車に乗りたい。どうして四国の霊場はこのような山寺が多いのか。町寺と聞くと、気持ちまで軽くなる。午後2時50分金剛頂寺打つ。

9.金剛頂寺より室戸岬方面が展望できた。室戸岬、津呂、室津の町々がよく見える。さらば室戸!明日よりは四国二大岬のもう一つの岬である足摺岬を目指すことになる。民宿うらしまの庭先は海亀が産卵する浜辺で有名である。従って、宿の名前もうらしまか。一泊二食5500円。同宿はマイカー遍路の夫婦一組のみ。

 

遍路紀行 8日目 (1997年3月4日) 快晴

行程

みなみ旅館(徳島県海町部)~室戸岬へ。ひたすら国道55号線を南下。徳島県宍喰町から高知県東洋町に入り、太平洋を臨む長大な海岸線と荒磯で有名な淀ヶ磯を一気に歩きぬけ、今夜の投宿先である民宿とくますのある室戸市佐喜浜町までの長丁場。

歩行距離 35キロ (延べ229キロ)

この日の出来事など 

1.7時40分みなみ旅館出発。今日も終始55号線だ。快晴。暑い。宍喰町は温和な美しい海岸と、ゴルフの尾崎兄弟の生まれ故郷で知られている。辺鄙な漁村に何とも不釣り合いな、けばけばしい南欧風リゾートホテルらしきものが建設中であった。午前9時、出発して8キロの地点で水床トンネル(638メートル)を通過。トンネルを出たら高知県の東洋町であった。ついに阿波から土佐の国に入った。水膨れも終息期を迎えたようだし、これなら全行程通しての歩き遍路ができそうだ。 

2.東洋町は風光明媚な甲の浦₍カンノウラ)で名高い。9時20分、甲の浦漁港前を通る。ここは阪神地方よりのフェリーボートの寄港港である。北欧のフィヨルドに似て山深くまで入り込んだ入り江が印象的な漁村である。東洋町の中心地は二つに分かれているのだろうか。一つは徳島寄りの甲の浦地区。もう一つは隣町である室戸佐喜浜町寄りで町役場などの行政機関がある。この二つの地区はかなり離れていて、55号国道が山坂峠道を上り下りして両点を結んでいる。この辺りの山間はポンカンの産地だ。沿道で直売の露店を出していた老夫婦のところに立ち寄る。近くで蜜柑栽培をしていると。試食させてもらったポンカンの美味なこと。自宅に宅配を頼む。一箱4000円。配送料1100円。おばあさんから別にお接待としてポンカン12個、それに化け物のようにでかいブンタン3個をいただくが、、なにせ水物のため重いこと。初夏を思はせる南国の陽光のもとをポンカン、ブンタンの入った大きなビニール袋を提げて汗をかきかき山間の国道を行く。東洋町の町中には探せば食堂もあったのであろうが、まだ時間も10時頃だし先を急ぐ。しかし、これが裏目に出た。今日は深山を歩くのではなく、国道に沿って有名な景勝地の淀ヶ磯を行くのだから、昼食をとるには不自由するまいと思って弁当なしでここまで来たが、見込みが外れた。

3.東洋町の外れの野根川を渡ると太平洋に突き出た鼻状の岬が左前方に見えてきた。伏越岬である。これより淀ヶ磯である。午前11時、東洋町の淀ヶ磯橋通過。淀ヶ磯海岸は総延長16キロ。東洋町側が8キロ、残り半分が室戸市佐喜浜町管轄の海岸で、長大な荒涼とした荒磯が延々と続く。片側一車線だがこれも国道55号。整備された観光道路だ。海面すれすれに右に左に忙しくカーブしながら室戸へ続く。誤算はこの長大な海岸には食堂はおろか人家すら一軒も見当たらない事で、昼食は絶望と覚悟した。接待でいただいたポンカン、ブンタンが有難いことに昼食の代用となってくれた。この日、旅館に着いた時にはポンカン数個を残すのみであった。

4.淀ヶ磯は人の気配のする世界ではなかった。人家無し。走行車も殆ど無し。人は我一人。55号線の右手は断崖絶壁が聳え、左は怒涛逆巻く太平洋と奇岩怪石の荒磯。この国道は太平洋に崩れ落ちるような断崖を削り取ってつくられたに違いない。眩しい陽光、紺碧の空。目を海に転ずれば沖の黒潮の紺青と岩に砕ける波の白。黒白二色の対称の妙。聞こえるは怒涛の轟音と岩を斬る風の音。鴎や鳶などの鳥影もない。風が強すぎるためか。車の走らぬ車道を堂々と歩く。寝そべってみる。車は影も形も無い。10分に1~2台か。走り去る車が妙に人懐かしい。歩けど歩けど、痛いような南国の陽光と緑の断崖と鋸の歯のような岩礁と白い怒涛と太平洋とクネクネと延びる国道。暗黒の密室であるトンネル内の一瞬の静寂は沈黙の死霊の世界を想起させたが、ここは鬼神が統べる荒涼として荒々しい死の世界である。大昔の遍路達はこの岩だらけの海岸を、人を襲う怒涛の恐怖と闘いながら必死に大師の加護を祈りつつ伝っていったのだろうか。16キロにわたる男性的な風景を眺め歩き続けると気分も単調になり、疲れを覚え始める頃、淀ヶ磯もやっと終わりにちかずいてきた。”室戸岬まであと26キロ”という標識が現れた。午後2時、ついに室戸市域に入る。ここまでくると風景に変化が現れてきた。平坦な土地が現れる。これで人が住める。

5.淀ヶ磯もそろそろ終わりになる頃、海に突出した鼻状の狭い台地にチョコンと一軒だけ立つ食堂を見つける。机坂食堂。室戸市佐喜浜町内。大盛かけうどん一杯350円。ポンカン腹がやっとの事でうどん腹になって胃袋も満足げである。午後3時、佐喜浜町尾崎の民宿とくますに着く。民宿とはいうが、堂々たるお屋敷だ。ここも周辺に人家無し。屋敷の正面国道越しにサーフィンビーチと荒磯が同居する絶景の眺めが展開している。部屋のテレビはボタン操作の白黒テレビで、骨とう品よろしく狭い床の間に鎮座している。同宿遍路はいない。土木作業員らしき若者達が大勢下宿代わりに長期滞在しているようすだ。食堂では残念ながら彼らとの会話は弾まなかった。一泊二食6000円。